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中津宮(なかつみや)

中津宮
中津宮なかつみや

解説かいせつ

辺津宮へつみや境内けいだいてさらにすすむと中津宮なかつみやにたどりきます。途中とちゅう、エスカーにればりたところがすぐしゅりの拝殿はいでんです。境内けいだいには歌舞伎かぶき中村座なかむらざ市村座いちむらざ奉納ほうのうとうろうほか、おおくの奉納ほうのう石造せきぞうぶつがあり、江戸時代えどじだい商人しょうにん芸人げいにん庶民しょみん信仰しんこうふかさをつたえています。


中津宮中津宮なかつみや江戸時代えどじだいには「上之宮うえのみや」とばれ、祭神さいじんは、市寸島比売命いちきしまひめのみことです。創建そうけん仁寿じんじゅ 3 ねん( 853 )とつたわります。現在げんざい社殿しゃでん平成へいせい 8 ねん( 1996 )の全面ぜんめん改修かいしゅうにより 元禄げんろく 2 ねん( 1689 )当時とうじ再現さいげんしたもので、 へい殿でん拝殿はいでん天井てんじょうには花鳥画かちょうが彫刻ちょうこくほどこされています。

江島縁起碑

江島縁起えのしまえんぎ

中津宮なかつみや正面しょうめん石段いしだんおどにあります。儒学者じゅがくしゃ葛西かさいいん(1764~1823) のぶんによるしま縁起えんぎきざまれています。文化ぶんか元年がんねん(1804)にてられました。

コッキング夫妻奉納石柱

コッキング夫妻ふさい奉納ほうのう石柱せきちゅう

江島縁起えのしまえんぎうらにあります。下部かぶ土中どちゅうもれてえませんが、以前いぜん調査ちょうさによれば「横浜居留地よこはまきょりゅうち コッキング 宮田みやたリキ」とあります。

不老門再建記念碑

不老ふろうもん再建さいけん記念碑きねんひ

以前いぜんは、中津なかつみやまえ不老ふろうもんがありました。明治めいじねん(1873)にのぞかれ、いま文久ぶんきゅう元年がんねん(1861)に、現在げんざい相模湖さがみこしずんだ津久井郡つくいぐん勝瀬かつせむら富豪ふごう岡部おかべせい右衛門えもん再建さいけんしたときの記念碑きねんひのこるだけです。

市村座奉納灯籠右

市村座いちむらざ奉納ほうのうとうろういっつい

安永あんえいねん(1777)に当時とうじ江戸えど葺屋ふきやちょう(げん中央区日本橋人形町ちゅうおうくにほんばしにんぎょうちょう)にあった芝居小屋しばいごや市村座いちむらざ奉納ほうのうした灯籠とうろうです。市村座いちむらざは、寛文かんぶんねん(1667)ごろ市村いちむら左衛門ざえもんはじめた芝居小屋しばいごやで、天保てんぽう 13 ねん(1842)に葺屋ふきやまちから猿若町さるわかちょう(げん台東区浅草たいとうくあさくさ)に移転いてんしました。明治めいじ 25 ねん(1892)に下谷二長町したやにちょうまち(げん台東区台東たいとうくたいとう)にうつり、大正たいしょうから昭和初期しょうわしょきにかけて初代しょだい中村吉右衛門なかむらきちえもん六代目ろくだいめ尾上菊五郎おのえきくごろう活躍かつやくしましたが、昭和しょうわねん(1932)に焼失しょうしつしました。

市村座奉納灯籠右

中村座奉納灯籠右

中村座なかむらざ奉納ほうのうとうろういっつい

天明てんめい 2 ねん( 1782 )に当時とうじ江戸えど堺町さかいちょうにあった芝居小屋しばいごや中村座なかむらざほかが奉納ほうのうしたものです。中村座なかむらざ初代しょだい中村なかむら猿若さるわか勘三郎かんざぶろうによって寛永かんえい元年がんねん( 1624 )に中橋なかはし広小路ひろこうじ(げん中央区京橋ちゅうおうくきょうばし)に猿若座さるわかざというつくられたのがはじまりといわれています。江戸えどもっと権威けんいのある芝居小屋しばいごやで、慶安けいあん 4 ねん( 1651 )に堺町さかいちょう(げん中央区日本橋人形町ちゅうおうくにほんばしにんぎょうちょう)にうつり、天保てんぽう 13 ねん( 1842 )には猿若町さるわかちょう(げん台東区浅草たいとうくあさくさ)にうつり、明治時代めいじじだいにも場所ばしょ名前なまええて存続そんぞくしましたが、明治めいじ 26 ねん( 1893 )に焼失しょうしつしました。 中村座なかむらざ座元ざもと家柄いえがら中村なかむらです。

中村座奉納灯籠右

石狗

いしいぬいっつい

宝暦ほうれき13ねん(1763)に江戸えど麹町こうじまち(こうじまち。げん千代田区ちよだく)の講中こうじゅう奉納ほうのうしたものです。

石狗

嗽水盥

うがいみずだらい

元禄げんろくねん(1690)に奉納ほうのうされたものです。めいには「江嶋えしま上之宮うえのみや」とあります。


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