Fujisawa Net Museum



江島神社(えのしまじんじゃ)奥津(おくつ)(みや)

奥津宮
奥津おくつみや

解説かいせつ

祭神さいじん多紀理たぎり比売命ひめのみことです。多紀理たぎり比売命ひめのみことは、三人姉妹さんにんしまい一番いちばんうえあねで、海上交通かいじょうこうつう守護神しゅごしんです。相模湾さがみわんのぞ岩屋いわや一番いちばんちか奥津おくつみやは、岩屋いわや本宮ほんぐうまたは御旅所おたびしょしょうされていましたが、天保てんぽう 12 ねん( 1841 )に焼失しょうしつしました。翌年よくねん再建さいけんされたのが現在げんざい社殿しゃでんで、昭和しょうわ 54 ねん( 1979 )に屋根やね修復しゅうふくしました。 酒井抱一さかいほういつ拝殿はいでん天井てんじょうに「八方睨はっぽうにらみのかめ」をえがいています。

八方睨みの亀〔模写〕

八方睨はっぽうにらみのかめ模写もしゃ

江戸えど後期こうき絵師えし酒井抱一さかいほういつ(1761~1828)のさくです。「これとき享和きょうわ三年さんねんりゅうしゅう昭陽しょうよう 大淵だいえんけん夏林かりんかねつき 抱一ほういつせい」の墨書ぼくしょめいがあり、享和きょうわねん(1803)のさくです。江島神社えのしまじんじゃ奥津おくつみや楼門ろうもん天井てんじょうとして奉納ほうのうされたもので、どこからてもかめにらんでいるようにえます。現在げんざい原画げんが損傷そんしょうはげしいのではずされて江島神社えのしまじんじゃ保管ほかんされ、わりに野沢のざわていみす(抱一ほういつ末流まつりゅう)による模写もしゃかかげられています。原画げんがは、昭和しょうわ46ねん(1971)に藤沢市ふじさわし指定してい文化財ぶんかざいとなりました。
酒井抱一さかいほういつは、姫路ひめじ藩主はんしゅ酒井さかいただざね以のおとうとで、尾形光琳おがたこうりん傾倒けいとうし、琳派りんぱ装飾そうしょくてき画風がふうぎ、発展はってんさせました。代表作だいひょうさくの「風雨ふうう草花くさばな」(「夏秋草なつあきくさ」)・「つき秋草あきくさ屏風びょうぶ」はくに重要文化財じゅうようぶんかざい指定していされています。

源頼朝奉納鳥居

源頼朝みなもとのよりとも奉納ほうのう鳥居とりい

養和ようわねん(1182)に源頼朝みなもとのよりともにより奉納ほうのうされたとつたえられる石鳥居いしどりいですが、大風おおかぜなどで破損はそん修復しゅうふくかえし、現在げんざいのものも一部いちぶしんざい補修ほしゅうされています。


灯籠

灯籠とうろう

文政ぶんせいねん(1826)に多摩たま百味ひゃくみこう奉納ほうのうしたもので、石工いしく片瀬かたせむらの「たいら治良はるよし」です。百味ひゃくみこうとは神仏しんぶつ百味ひゃくみ奉納ほうのうするこうという意味いみで、各地かくちにありました。



灯籠

灯籠とうろう一対いっつい

文政ぶんせい 12 ねん(1829)に武蔵むさし野火止のびとめむら北野村きたのむら(げん埼玉県新座市さいたまけんにいざし)や引又ひきまたむら宗岡むねおかむら(げん埼玉県志木市さいたまけんしきし)ほかの百味ひゃくみこう奉納ほうのうしたものです。

灯籠

鳥居修復記念碑

鳥居修とりいしゅうふく記念碑きねんひ

文政ぶんせい 10 ねん(1827)に頼朝よりとも奉納ほうのう鳥居とりい修復しゅうふくしたときの記念碑きねんひです。金亀きんきざん総別そうべつとう岩本院いわもといん法院ほういん賢亮けんりょうこした碑文ひぶんによれば文政ぶんせいねん(1823)に台風たいふうたお鳥居とりい破損はそんしました。ふで聖天院しょうでんいん埼玉県日高市さいたまけんひだかし)の山門さんもんかる山号さんごうがくにもふでのこ江戸えど中村なかむら入道にゅうどうけいれんで、江戸えど浅草あさくさ上野うえの神田かんだ湯島ゆしまなどの奉納ほうのうしゃ世話人せわにん列挙れっきょされ、五大ごだい弁財天べんざいてんとしてしまのほかに、陸奥みちのく金華山きんかざん安芸あき厳島いつくしま近江おうみ竹生ちくぶじま駿河するが御嶽おんたけ(富士山ふじさん)をあげています。

亀甲石

亀甲きっこうせき

亀石かめいしともびます。江戸えど内外ないがい事件じけんろくである斎藤さいとう月琴げっきん(幸成ゆきなり)の『武江年表ぶこうねんぴょう』の文化ぶんかねん(1806)4がつ記事きじに「べんしゅうどうなにがし弁才天べんざいてんしん金光こんこうみょう最勝さいしょう王経おうきょう書写しょしゃし、清浄せいじょうおさめんとしてうえくべきいしもとめしに、はからずしてかめかたちしたるいしたり(たてさんしゃくよこしゃく)。しま奉納ほうのうす」とあるものとされています。

(べつ)写真(しゃしん)

力石

力石ちからいし

日本一にっぽんいち力持ちからもちとばれた「三ノ宮卯之助さんのみやうのすけ」が奉納ほうのうしたもので、「奉納ほうのういわつき卯之助うのすけもつこれはちじゅっかん」ときざまれていて、弁財天べんざいてん祭礼さいれいもうでた人々ひとびとまえちから競技きょうぎおこなったときのものとされています。卯之助うのすけ文化ぶんか 4 ねん(1807)に岩槻藩いわつきはん埼玉県越谷市さいたまけんこしがやし)の三野宮さんのみやまれ、ちからもの諸国しょこく興行こうぎょうし、天保てんぽう 4 ねん(1833)には 11 だい将軍しょうぐん家斉いえなりまえげい披露ひろうしてもいます。自分じぶんきざんだ力石ちからいし各地かくちのこしていますが、 しまのほか、鎌倉かまくら鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう川崎大師かわさきだいし江戸えど富岡とみおか八幡やはた江東区こうとうく)、出身地しゅっしんち越谷こしがや三野宮さんのみや香取神社かとりじんじゃなど、とおくは長野県ながのけん諏訪大社すわたいしゃ大阪府おおさかふ大阪天満宮おおさかてんまんぐうでも確認かくにんされています。

石狗

いしいぬいっつい

宝暦ほうれき 11 ねん(1761)に奉納ほうのうされたもので、明治めいじ 11 ねん(1787)の奉納ほうのうしゃついこくもあります。


石狗


灯籠

灯籠とうろう一対いっつい

弘化こうか 3 ねん(1846)に多摩郡たまぐんしも相原村あいはらむらげん相模原市小山さがみはらしおやま付近ふきん)のひと奉納ほうのうしたもので、「江嶋えのしまそう別当べっとう岩本院いわもといん亮雄りょうゆうだい」の文字もじもあります。


灯籠


灯籠

灯籠とうろう

天保てんぽうねん(1833)に八王子はちおうじ講中こうじゅう奉納ほうのうしました。石工いしくとして片瀬かたせの「平次郎へいじろう」のきざまれています。


山田検校座像

山田検校やまだけんぎょう座像ざぞう

大正たいしょうねん(1917)に筝曲そうきょく山田流やまだりゅうりゅう山田検校やまだけんぎょう(1757~1817)を顕彰けんしょうして座像ざぞう顕彰碑けんしょうひてられました。文言もんごん幸田こうだ成行しげゆき(露伴ろはん)のせんです。山田検校やまだけんぎょう宝暦ほうれきねん(1757)江戸えど尾張藩おわりはん宝生流ほうしょうりゅう能楽師のうがくし三田みたりょうにんとしてまれました。名前なまえ勝善かつよしです。おさなくして不自由ふじゆうになりますが、山田やまだ松黒しょうこく生田流いくたりゅう(こと)まなび、後年こうねん山田流やまだりゅうおこしました。浄瑠璃じょうるり旋律せんりつれて人気にんきび、おおくの門弟もんていち、その功績こうせき検校けんぎょうさずけられています。代表作だいひょうさくひとつ「しまきょく」は、しま滞在たいざいしてつくったとつたわります。当初とうしょ座像ざぞう太平洋戦争たいへいようせんそう供出きょうしゅつされましたが、近年きんねん当時とうじぜにがた発見はっけんされたことから、山田流やまだりゅう筝曲そうきょく協会きょうかい再建さいけんし、平成へいせい 16 ねん(2004) 4 つき除幕式じょまくしきおこなわれました。再建さいけんした銅像どうぞうたかさ96cmで、検校けんぎょう晩年ばんねん姿すがたとされています。

(べつ)写真(しゃしん)


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