ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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狂歌(きょうか):うかれ女(おんな)の 真心(まごころ)よりそ うそぶける とらといふ名(な)は いしに残(のこ)れり(富有亭満成) 大磯宿(おおいそしゅく)の街道(かいどう)とその奥(おく)に広(ひろ)がる相模湾(さがみわん)が俯瞰的(ふかんてき)に描(えが)かれています。遠景(えんけい)の海岸線(かいがんせん)上(じょう)に小(ちい)さく描(えが)かれた白(しろ)い帆(ほ)によって、画面(がめん)奥(おく)にみえる伊豆(いず)半島(はんとう)との距離感(きょりかん)が表現(ひょうげん)されています。大磯(おおいそ)には有名(ゆうめい)な仇討(あだうち)ち物(もの)語(がたり)である「曽我(そが)物語(ものがたり)」の登場人物(とうじょうじんぶつ)・大磯(おおいそ)の虎(とら)に縁(ゆかり)のある虎(とら)御石(ごいし)があり、江戸時代(えどじだい)から街道(かいどう)の名物(めいぶつ)となっていました。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 大磯(おおいそ)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):小田原(おだわら)の 沖(おき)の船(ふね)より 見(み)えつらん 霞(かすみ)の海(うみ)の 城(しろ)の鯱(しゃち)(繁の門雛昌) 小田原(おだわら)の海沿(うみぞ)いの街道(かいどう)の風景(ふうけい)です。画面(がめん)奥(おく)の海岸(かいがん)では漁師(りょうし)たちが地引網(じびきあみ)を引(ひ)いています。街道(かいどう)をゆく旅人(たびびと)の合羽(かっぱ)が風(かぜ)になびく様子(ようす)からは海風(うみかぜ)を感(かん)じさせます。遠景(えんけい)の水平線(すいへいせん)上(じょう)にみえる白(しろ)い帆(ほ)により海(うみ)が遥(はる)か遠(とお)くまで続(つづ)く描写(びょうしゃ)がなされ、画面(がめん)手前(てまえ)に大(おお)きな松(まつ)が描(えが)かれても圧迫(あっぱく)感(かん)を感(かん)じさせず、開放(かいほう)感(かん)のある作品(さくひん)となっています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 小田原(おだわら)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):ことわざに 雲(くも)ともいへる 人(ひと)なれや かゝる山路(やまじ)を 夜(よ)るも越(こし)ゆく(富黄園満春) 客(きゃく)を乗(の)せた駕籠(かご)(かご)の前後(ぜんご)に、松明(たいまつ)(たいまつ)を持(も)つ人足(にんそく)(にんそく)が付(つ)いている様子(ようす)から、夜(よる)の箱根(はこね)の山越(やまご)えを描(えが)いていることがわかります。画面(がめん)左(ひだり)に迫(せま)り立(た)つ崖(がけ)を描(えが)くことによって、画面(がめん)右(みぎ)の反対(はんたい)側(がわ)は深(ふか)い谷(たに)であることが強調(きょうちょう)されています。箱根(はこね)の山道(さんどう)は、幕府(ばくふ)により敷石(しきいし)で整備(せいび)され、「箱根(はこね)の石畳(いしだたみ)」として現在(げんざい)も残(のこ)されています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 箱根(はこね)(狂歌(きょうか)入(にゅう)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):今(いま)も猶(なお)(なお) 夢路(ゆめじ)をたどる 心(ここ)(ここ)ちかな はなとみしまの 雪(ゆき)の曙(あけぼの)(立川伊志女) 一面(いちめん)の雪景色(ゆきげしき)の中(なか)に、川(かわ)の青(あお)が映(は)えています。後景(こうけい)には雪(ゆき)を冠(かぶ)った富士山(ふじさん)が描(えが)かれており、雪(ゆき)面(めん)や空(そら)の色(いろ)の濃淡(のうたん)によって、立体感(りったいかん)や遠近(えんきん)感(かん)を感(かん)じさせる作品(さくひん)です。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 三島(みしま)(狂歌(きょうか)入(にゅう)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):名(な)にしおふ 沼津(ぬまづ)堤(つつみ) 花見酒(はなみざけ) 沼(ぬま)のごとくに 酔(よい)しひとむれ(東雲亭於(喜)保) 画面(がめん)手前(てまえ)の街道(かいどう)沿(ぞ)いに牓(ぼう)示(じ)杭(くい)(ぼうじくい)がみえることから、沼津宿(ぬまづしゅく)の西(にし)はずれの茶屋(ちゃや)から富士山(ふじさん)をみた風景(ふうけい)と思(おも)われます。後景(こうけい)の左側(ひだりがわ)に見切(みき)れるほど大(おお)きく富士山(ふじさん)が描(えが)かれ、その右(みぎ)ふもとには愛鷹山(あしたかやま)(あしたかやま)が描(えが)かれています。富士山(ふじさん)にかかるように漂(ただよ)う雲(くも)が富士山(ふじさん)と空(そら)の高(たか)さとの広(ひろ)がりを思(おも)わせます。この沼津(ぬまづ)の画(え)のあとに、次(つぎ)の場面(ばめん)の原(はら)(作品(さくひん)№13)の画(え)を見(み)ると、まるで歩(ほ)を進(すす)めながら富士山(ふじさん)を眺(なが)めているように感(かん)じられます
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 沼津(ぬまづ)(狂歌(きょうか)入(にゅう)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):けふいくか 足(あし)よ腰(こし)よと あゆみ来(き)て 見(み)あぐるはらの 不二(ふじ)の大(おおき)さ(数寿垣) 原宿(はらじゅく)のはずれにある茶屋(ちゃや)から富士山(ふじさん)を見(み)た風景(ふうけい)です。画面(がめん)の上(うえ)半分(はんぶん)を占(し)めるほど富士山(ふじさん)が大(おお)きく、枠外(わくがい)に突(つ)き出(だ)して描(えが)かれています。また、山肌(やまはだ)の色(いろ)の濃淡(のうたん)や、富士山頂(ふじさんちょう)を取(と)り巻(ま)くような雲(くも)と、ふもとに広(ひろ)がるように描(えが)かれた雲(くも)によって、より富士山(ふじさん)の大(おお)きさが強調(きょうちょう)されています。 この画(え)のように、広重(ひろしげ)が描(えが)く東海道(とうかいどう)作品(さくひん)において、原宿(はらじゅく)の場面(ばめん)の多(おお)くは、富士山頂(ふじさんちょう)を枠外(わくがい)に突(つ)き出(だ)す形(かたち)で描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 原(はら)(狂歌(きょうか)入(にゅう)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):行来(いきき)する 人(ひと)のいく度(ど) 詠(よ)めても あしと思(おも)はぬ 冨士(ふじ)はよし原(はら)(栄寿堂金信) 吉原宿(よしわらしゅく)は左富士(ひだりふじ)の名所(めいしょ)として知(し)られていました。後景(こうけい)の富士山(ふじやま)へ向(む)かうように大(おお)きく蛇行(だこう)するあぜ道(みち)と、それに連(つら)なる松並木(まつなみき)の表現(ひょうげん)により、この田園(でんえん)風景(ふうけい)に広大(こうだい)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じられます。景色(けしき)を楽(たの)しむ旅(たび)の醍醐味(だいごみ)を、まるで画(が)中(ちゅう)の旅人(たびびと)と同(おな)じように味(あじ)わえる作品(さくひん)です。
東海道(とうかいどう)五(ご)捨三(すてぞう)次(じ) 吉原(よしわら) 左(ひだり)冨士(ふじ)ノ縄手(なわて)(狂歌(きょうか)入(にゅう)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):春風(はるかぜ)に 向(むかい)て田村(たむら)を すぎ行(い)けば 真(ま)袖(そで)に匂(におい)ふ 梅(うめ)にかん原(はら)(梅香居) 吉原(よしはら)と蒲原(かんばら)の間(あい)の宿(しゅく)である岩淵(いわぶち)あたりの景色(けしき)でしょうか。あえて富士山(ふじさん)を隠(かく)すかのように手前(てまえ)に樹木(じゅもく)を配(はい)することによって、木々(きぎ)が迫(せま)る山(やま)あいの街道(かいどう)の様子(ようす)を表現(ひょうげん)しています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 蒲原(かんばら)(狂歌(きょうか)入(にゅう)東海道(とうかいどう))