Fujisawa Net Museum

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歌川貞秀(うたがわさだひで)
元治(げんじ)元年(がんねん)(1864)
風景(ふうけい)や動物(どうぶつ)、植物(しょくぶつ)など様々(さまざま)な事物(じぶつ)が紹介(しょうかい)された図絵(ずえ)集(しゅう)です。題名(だいめい)に使(つか)われている「写真(しゃしん)」とは、「真(しん)を写(うつ)し、実物(じつぶつ)や実景(じっけい)をそのままとらえる」という意味(いみ)がありました。本作(もとさく)には旅行(りょこう)案内(あんない)の役割(やくわり)も果(は)たしていた名所絵(めいしょえ)が多数(たすう)含(ふく)まれており、景色(けしき)とともに名称(めいしょう)が記(しる)されています。絵師(えし)の貞秀(さだひで)は、役者絵(やくしゃえ)や美人画(びじんが)、風景画(ふうけいが)など幅広(はばひろ)いジャンルの浮世絵(うきよえ)を手掛(てが)け、鳥瞰図(ちょうかんず)を多数(たすう)制作(せいさく)した事(こと)でも知(し)られています。
展示(てんじ)中(ちゅう)の頁(ぺーじ)は江(え)の島(しま)内(ない)の名所(めいしょ)、富士山(ふじさん)、箱根山(はこねやま)や豆州(ずしゅう)下田(しもだ)の岬(みさき)を紹介(しょうかい)しており、江(え)の島(しま)は岩屋(いわや)が正面(しょうめん)に描(えが)かれています。左(ひだり)から「龍(りゅう)燈(あかり)松(まつ)」、「龍穴(りゅうけつ)」、「上ノ宮(かみのみや)」、「ロウ門(もん)(楼門(ろうもん))」、「塔(とう)」、「下(しも)ノ宮(みや)」、「岩本院(いわもといん)」、「茶屋(ちゃや)町(まち)」、「一(いち)ノトリ井(い)(一(いち)の鳥居(とりい))」、や「リヤウンマチ(漁師町(りょうしまち))」といった島内(とうない)重要(じゅうよう)な要所(ようしょ)が記(しる)されています。


鳥瞰図(ちょうかんず)に秀(ひい)で「空飛ぶ絵師(そらと)ぶ絵師(えし)」とも呼(よ)ばれた貞秀(さだひで)による【画帳(がちょう)】。
第(だい)三(さん)編(へん)には、滝(たき)・山(やま)・島(しま)等(など)の風景画譜(ふうけいがふ)と仁王像(におうぞう)等(とう)の画像(がぞう)が描(えが)かれています。

万象(ばんしょう)写真(しゃしん) 図譜(ずふ) 第(だい)三(さん)編(ぺん)

鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)
文化(ぶんか)年間(ねんかん)(1804-18)
高(たか)い視点(してん)から日本(にっぽん)の国土(こくど)を隅々(すみずみ)まで捉(とら)えた鳥瞰図(ちょうかんず)です。日本(にっぽん)の形(かたち)が圧縮(あっしゅく)され、本州(ほんしゅう)を手前(てまえ)に各(かく)藩(はん)の城(しろ)や名所(めいしょ)が細(こま)かく記(しる)されています。画面(がめん)下部(かぶ)に記載(きさい)されている「相模(さがみ)」の箇所(かしょ)では江(え)の島(しま)と思(おも)われる島(しま)が描(えが)かれています。日本(にっぽん)全体(ぜんたい)を上空(じょうくう)から見下(みお)ろしたように描(えが)いた構図(こうず)は当時(とうじ)も珍(めずら)しかったのか、葛飾北斎(かつしかほくさい)も真似(まね)て、「東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)一覧(いちらん)」に応用(おうよう)したといわれています。作者(さくしゃ)の鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)(北尾政美(きたおまさよし))は、北尾重政(きたおしげまさ)の門人(もんじん)ですが、寛政(かんせい)6年(ねん)(1794) 31歳(さい)で津山藩(つやまはん)(現(げん)岡山県(おかやまけん))のお抱(かか)え絵師(えし)となり、鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)紹真(つぐざね)と称(しょう)しました。

日本名(にほんめい)所(しょ)之(の)絵(え)

元禄(げんろく)3年(ねん)(1690)
絵図(えず)製作者(せいさくしゃ)として活躍(かつやく)していた遠近道印(おちこちどういん)が(1620‐?)が作成(さくせい)した原図(げんず)を基(もと)にして、絵師(えし)の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が街道(かいどう)の風景(ふうけい)を描(えが)いて、完成(かんせい)させた分間図(ぶんけんず)です。分間(ぶんけん)(ぶんけん)とは測量(そくりょう)するという意味(いみ)で、測量(そくりょう)に基(もと)づいて、縮尺(しゅくしゃく)して描(えが)かれています。
本分間図(ほんぶんけんず)は、東海道(とうかいどう)の宿駅間(しゅくえきかん)の距離(きょり)や沿道(えんどう)の寺社(じしゃ)、川(かわ)の渡(わた)り方(かた)、茶屋(ちゃや)や各地(かくち)の名物(めいぶつ)などを載(の)せた、縮尺(しゅくしゃく)が正確(せいかく)な道中(どうちゅう)案内(あんない)記(き)でもあり、見(み)て楽(たの)しめる街道(かいどう)絵図(えず)として、何度(なんど)も再版(さいはん)されました。元禄(げんろく)3年(ねん)版(ばん)は、大阪(おおさか)新(しん)和泉町(いずみちょう)の版元(はんもと)七郎(しちろう)兵衛(ひょうえ)により刊行(かんこう)されました。
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は、一(いち)枚(まい)絵(え)の浮世絵(うきよえ)版画(はんが)の確立(かくりつ)者(しゃ)で、「見返(みかえ)り美人(びじん)図(ず)」などの肉筆(にくひつ)、版本(はんぽん)挿絵(さしえ)などを数多(かずおお)く描(えが)きました。

東海道分間之図一

東海道(とうかいどう)分間之図(ぶんけんのず)

製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。
板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ))

行列(ぎょうれつ)の主役(しゅやく)である若(わか)い武将(ぶしょう)が馬(うま)に乗(の)りあがろうとしている場面(ばめん)を描(えが)いています。

画面左(がめんひだり)に桑名城(くわなじょう)の石垣(いしがき)が見(み)えることから、この画(が)は宮宿(みやしゅく)から桑名宿(くわなしゅく)の間(あいだ)をつなぐ海上路(かいじょうろ)(伊勢湾(いせわん))の「七里(しちり)の渡(わた)し」を渡(わた)り、桑名(くわな)の渡(わた)し口(ぐち)に到着(とうちゃく)した場面(ばめん)を描(えが)いたものと考(かんが)えられます。

文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。
東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。
描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。

東海道 桑名(上洛東海道)

東海道(とうかいどう) 桑名(くわな)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))

製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。
板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ))

浜名湖(はまなこ)と遠州灘(えんしゅうなだ)がつながる今切(いまぎり)の渡(わた)しを、行列(ぎょうれつ)を乗(の)せた屋型(やかた)つきの豪華(ごうか)な船(ふね)が渡(わた)っています。 この船(ふね)は御座船(ござぶね)といわれる貴人(きじん)を乗(の)せる船(ふね)のことです。

文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。
東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。
描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。

東海道 舞坂(上洛東海道)

東海道(とうかいどう) 舞坂(まいさか)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))

製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ))

藤枝宿(ふじえだしゅく)を行列(ぎょうれつ)が通過(つうか)する場面(ばめん)を、旅籠(はたご)の中(なか)から見(み)た構図(こうず)となっています。 行列(ぎょうれつ)の手前(てまえ)で土下座(どげざ)をしている旅籠(はたご)の男性(だんせい)たちに対(たい)して、女中(じょちゅう)たちは興味津々(きょうみしんしん)といった様子(ようす)で顔(かお)をあげています。

旅籠(はたご)の店先(みせさき)にはいくつもの木札(きふだ)が下(さ)げられているのが見(み)えます。これらは講札(こうさつ)といい、参詣(さんけい)の旅(たび)をする講(こう)の一行(いっこう)が、あらかじめ決(き)められた茶屋(ちゃや)や旅籠(はたご)を見(み)つける目印(めじるし)として掲(かか)げられたものです。 まるで現代(げんだい)のツアー予約(よやく)のようなイメージです。
画面右手前(がめんみぎてまえ)の講札(こうさつ)には「絵草紙講中(えぞうしこうじゅう)」など洒落(しゃれ)のきいた創作(そうさく)の講(こう)が書(か)かれたものもあります。行列(ぎょうれつ)の向(む)こうに見(み)える旅籠(はたご)の看板(かんばん)には、この版(ばん)の版元(はんもと)を表(あらわ)す遠州屋(えんしゅうや)の文字(もじ)が記(しる)されています。

文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。
このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています

東海道 藤枝(上洛東海道)

東海道(とうかいどう) 藤枝(ふじえだ)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))



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