Fujisawa Net Museum

資料一覧

平成(へいせい)29(ねん)(2017)5月2日(がつふつか)登録(とうろく)大正(たいしょう)13(ねん)(1924(ねん))に「越前屋号合名会社(えちぜんやごうごうどうかぶしきがいしゃ)雨谷商店(あまやしょうてん)」の店舗兼住居(てんぽけんじゅうきょ)として、境川(さかいがわ)にかかる大正橋(たいしょうばし)(ちか)くに建築(けんちく)されました。雨谷商店(あまやしょうてん)前身(ぜんしん)である「越前(えちぜん)や 與左衛門(よざえもん)」は、江戸時代中期(えどじだいちゅうき)から清浄光寺(しょうじょうこうじ)遊行寺(ゆぎょうじ))の惣門前(そうもんまえ)薬品(やくひん)砂糖(さとう)などを(あつか)っていた卸商(おろししょう)大正(たいしょう)8(ねん)(1919(ねん))に店舗兼家屋(てんぽけんかおく)(あら)たに()(なお)しましたが、大正(たいしょう)12(ねん)(1923(ねん)関東大地震(かんとうだいじしん)によって倒壊(とうかい)翌年(よくとし)場所(ばしょ)大正橋(たいしょうばし)(ちか)くに移転(いてん)新築(しんちく)しました。新築(しんちく)(さい)し、震災(しんさい)倒壊(とうかい)した家屋(かおく)部材(ぶざい)再利用(さいりよう)されました。雨谷商店(あまやしょうてん)昭和恐慌(しょうわきょうこう)影響(えいきょう)閉店(へいてん)し、建物(たてもの)商店(しょうてん)関係者(かんけいしゃ)購入(こうにゅう)して昭和(しょうわ)13(ねん)(1938(ねん))に打戻(うちもどり)移築(いちく)住居(じゅうきょ)として使(つか)われました。その()盛岩寺(せいがんじ)(ゆず)()平成(へいせい)24(ねん)(2012(ねん))に境内(けいだい)移築(いちく)されました。大商店(だいしょうてん)店舗兼住居(てんぽけんじゅうきょ)であったため、規模(きぼ)(おお)きさ、硝子(がらす)貴重(きちょう)木材(もくざい)()しみなく使(つか)っている(てん)など通常(つうじょう)民家(みんか)には()られない特色(とくしょく)(おお)くあります。出桁(だしげた)(ひさし)(ふと)(けた)など、震災復興期(しんさいふっこうき)らしい重厚(じゅうこう)さが()られます。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建(もくぞうひらやだて) 鋼板葺(はがねいたぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)大正(たいしょう)13(ねん)建築(けんちく)昭和(しょうわ)13(ねん)移築(いちく)平成(へいせい)24(ねん)移築(いちく)建築面積(けんちくめんせき):138㎡。所有者(しょゆうしゃ)盛岩寺(せいがんじ)

(きゅう)越前屋(えちぜんや)雨谷(あまや)商店(しょうてん)店舗(てんぽ)(けん)(しゅ)(おく)

平成(へいせい)29(ねん)((2017)10(がつ)27(にち) 登録(とうろく)石曽根家(いしそね)は、旧東海道(きゅうとうかいどう)沿()いで江の島道(えのしまみち)との分岐点(ぶんきてん)のやや西側(にしがわ)()り、屋号(やごう)は「マルイシ」で履物屋(はきものや)下駄屋(げたや))を(いとな)んでいました。昭和(しょうわ)8年刊行(ねんかんこう)の『現在(げんざい)藤沢(ふじさわ)』によれば、創業者(そうぎょうしゃ)達次氏(たつじし)明治(めいじ)11(ねん)鵠沼(くげぬま)()まれ、藤沢(ふじさわ)履物屋(はきものや)老舗(しにせ)石上(いしかみ)宮澤辰五郎氏(みやざわたつごろうし)弟子(でし)となり東京(とうきょう)横浜(よこはま)修行(しゅぎょう)したのち、明治(めいじ)34(ねん)藤沢(ふじさわ)(もど)って(みせ)(ひら)いたとされています。また同書(どうしょ)には「履物業界(はきものぎょうかい)中略(ちゅうりゃく))、新興気鋭(しんしんきえい)業者(ぎょうしゃ)としては西(にし)台町(だいまち)松本屋(まつもとや)中央(ちゅうおう)(なか)(ちょう)高倉屋(たかくらや)(ひがし)旅籠町(はたごまち)石曽根(いしそね)(とう)ありて、(たが)いにその()(あらそ)ふに()たり」ともあり、(おお)くの職人(しょくにん)(かか)えた藤沢有数(ふじさわゆうすう)履物屋(はきものや)でありました。創業当初(そうぎょうとうしょ)江の島道沿(えのしまみちぞ)いに(みせ)(かま)えていましたが、大正(たいしょう)12(ねん)関東大地震(かんとうおおじしん)(さい)店舗(てんぽ)などが境川(さかいがわ)崩落(ほうらく)する被害(ひがい)()い、震災後(しんさいご)現在地(げんざいち)移転(いてん)現存(げんそん)する店舗(てんぽ)(けん)(しゅ)(おく)棟札(むなふだ)などの史料(しりょう)()くが、建物(たてもの)登記(とうき)刊行(かんこう)(ぶつ)記述(きじゅつ)から大正(たいしょう)13(ねん)竣工(しゅんこう)判断(はんだん)できる。 構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう)2階建(かいだて) 鉄板葺(てっぱんぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)大正(たいしょう)13(ねん)建築(けんちく)昭和(しょうわ)42(ねん)改修(かいしゅう)建築面積(けんちくめんせき):115㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

(きゅう)石曽根(いしそね)商店(しょうてん)店舗(てんぽ)(けん)(しゅ)(おく)

平成(へいせい)30(ねん)(2018)3(がつ)27(にち)登録(とうろく)実業家(じつぎょうか)尾日向竹重(おびなたたけしげ)邸宅(ていたく)尾日向竹重(おびなたたけしげ)昭和15年(しょうわじゅうごねん)三ツ輪産業株式会社(みつわさんぎょうかぶしきがいしゃ)創立(そうりつ)し、商工省物価諮問委員(しょうこうしょうぶっかしもんいいん)石油審議会専門委員(せきゆしんぎかいせんもんいいん)日本煉炭工業会会長(にほんれんたんこうぎょうかいかいちょう)(とう)歴任(れきにん)しました。洋館(ようかん)和館(わかん)ともに昭和(しょうわ)3年頃(ねんごろ)建築(けんちく)で、建設当時(けんせつとうじ)土地(とち)所有者(しょゆうしゃ)現建物(げんたてもの)建築主(けんちくぬし)については(べつ)人物(じんぶつ)でしたが、その(のち)複数(ふくすう)所有者(しょゆうしゃ)()て、昭和(しょうわ)23(ねん)尾日向家(おびなたけ)()(はじ)めました。             鵠沼(くげぬま)明治時代以降(めいじじだいいこう)別荘地(べっそうち)として開発(かいはつ)された地域(ちいき)で、その(なか)でも尾日向家住宅(おびなたけじゅうたく)最初期(さいしょき)からの別荘地域(べっそうちいき)所在(しょざい)しています。洋館(ようかん)和館(わかん)併置(へいち)し、フランス瓦葺(かわらぶき)規模(きぼ)(おお)きい洋館(ようかん)道路(どうろ)(めん)して()様相(ようそう)は、震災後(しんさいご)鵠沼(くげぬま)別荘地(べっそうち)としての景観(けいかん)現在(げんざい)(きわ)めてよく(つた)えています。尾日向家住宅(おびなたけじゅうたく)洋館(ようかん)和館(わかん)別棟(べっとう)になっておらず、連続(れんぞく)した一体(いったい)構成(こうせい)となっているのが(おお)きな特徴(とくちょう)生活(せいかつ)主体(しゅたい)洋館(ようかん)にあり、和館(わかん)接客部分(せっきゃくぶぶん)になっています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋(もくぞうひらや)一部(いちぶ)2階建(かいだて) 瓦葺(かわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)3年頃建築(ねんごろけんちく)昭和(しょうわ)40(ねん)(どう)60(ねん)増築(ぞうちく)建築面積(けんちくめんせき):224㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

尾日向(おびなた)()住宅(じゅうたく)洋館(ようかん)()(かん)



Page Top