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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)6(1809)年(ねん)。板元(はんもと):森屋治兵衛(もりやじへえ) 歌麿(うたまろ)は天明(てんめい)7年(ねん)(1787年(ねん))頃(ころ)には上野(うえの)忍岡(しのぶがおか)御数寄屋町(おすきやまち)に住(す)み、のち板元(はんもと)蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)方(かた)に寄宿(きしゅく)しています。その援助(えんじょ)を受(う)け独特(どくとく)の美人画(びじんが)を制作(せいさく)しています。特(とく)に寛政(かんせい)3年(ねん)頃(ごろ)より美人(びじん)大首絵(おおくびえ)という女性(じょせい)の上半身(じょうはんしん)を描(えが)いた作品(さくひん)が評判(ひょうばん)となります。 この作品(さくひん)は江(え)の島(しま)を描(えが)いたという判然(はんぜん)とした確証(かくしょう)はありませんが、右(みぎ)の1枚(まい)に開帳(かいちょう)の文字(もじ)が入(はい)った提灯(ちょうちん)があり、江(え)の島(しま)の雰囲気(ふんいき)を漂(ただよ)わせています。この図(ず)の主題(しゅだい)は美人画(びじんが)ですが、子(こ)どもの泳(およ)ぐさまを見物(けんぶつ)している体裁(ていさい)を取(と)っています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう))
制作(せいさく)時期(じき):享和(きょうわ)年間(ねんかん)(1801~04)頃(ころ)。板元(はんもと):鶴(つる)新(しん) この作品(さくひん)は1月(がつ)から12月(がつ)までの12枚(まい)揃(そろい)で制作(せいさく)されたもののうちの1枚(まい)で、表題(ひょうだい)はすべて同(おな)じです。12枚(まい)全部(ぜんぶ)は確認(かくにん)されず、現在(げんざい)わかっているものは、「陬月(すうげつ)〔正月(しょうがつ)〕)の大神楽(おおかぐら)」「睦月(むつき)(むつき〔正月(しょうがつ)〕)の女郎買(じょろかい)」「皐月(さつき)(〔5月(がつ)〕)の肴(さかな)売(うり)」「水無月(みなづき)(〔6月(がつ)〕)の水(みず)売(うり)」「初秋(しょしゅう)の多満(たま)祭(さい)」「名月(めいげつ)の遊興(ゆうきょう)」「霜月(しもつき)(〔11月(がつ)〕)の神詣(かみもうで)」「玄英(げんえい) (冬(ふゆ)の別名(べつめい))の雑司(ぞうし)谷(がや)」の9点(てん)です。 この作品(さくひん)は商家(しょうか)の女房(にょうぼう)が伴(とも)の若者(わかもの)を連(つ)れて江(え)の島(しま)詣(もうで)に出(で)かける姿(すがた)を描(えが)いたもので、菅笠(すげがさ)をかぶり黒(くろ)襟(えり)のコートを着(き)て手甲(てっこう)をした女房(にょうぼう)と天秤(てんびん)で荷物(にもつ)を振(ふ)り分(わ)けて肩(かた)にかけた従者(じゅうしゃ)の姿(すがた)は、当時(とうじ)の近場(ちかば)の旅(たび)の典型(てんけい)的(てき)なスタイルです。この作品(さくひん)は他(た)に所有(しょゆう)されているところは少(すく)なく、多少(たしょう)補色(ほしょく)した部分(ぶぶん)が見(み)うけられますが、貴重(きちょう)な資料(しりょう)であるといえます。
風流(ふりゅう)四季(しき)の遊(あそび) 弥生(やよい)の江之島(えのしま)詣(もうで)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)年間(ねんかん)(1830~44)。 板元(はんもと):永寿(えいじゅ)堂(どう) 冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)は北斎(ほくさい)最大(さいだい)の傑作(けっさく)のシリーズもので、最初(さいしょ)に刊行(かんこう)された36枚(まい)は「表(おもて)」といわれ、のち好評(こうひょう)のため続(ぞく)刊(かん)された10枚(まい)は「裏(うら)」と呼(よ)ばれ、全部(ぜんぶ)で46枚(まい)が発行(はっこう)されています。そのうちでも三(さん)大傑作(だいけっさく)といわれるものは、俗(ぞく)に赤富士(あかふじ)とよばれる「凱風快晴(がいふうかいせい)」、「山下白雨(さんかはくう)」、「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」です。 これら富士(ふじ)を描(えが)いた46種(しゅ)類(るい)の作品(さくひん)は、それぞれに共通(きょうつう)する技法(ぎほう)によって幾(いく)つかに分類(ぶんるい)することが出来(でき)ますが、大(おお)きく分(わ)けると伝統(でんとう)的(てき)な日本画(にほんが)の影響(えいきょう)の強(つよ)いもの、中国(ちゅうごく)の漢(かん)画(が)的(てき)な要素(ようそ)のあるもの、さらに遠近法(えんきんほう)を取(と)り入(い)れた洋画(ようが)的(てき)表現(ひょうげん)など三(みっ)つに分(わ)けられます。 この図(ず)はそうしたもののうち漢(かん)画(が)的(てき)な要素(ようそ)のまさったもので、その黄緑(きみどり)色(いろ)の淡(あわ)い色調(しきちょう)は「相州箱根湖水(そうしゅうはこねこすい)」のそれを連想(れんそう)させます。そして一見(いっけん)地続(じつづ)きのように見(み)え、他(た)の絵師(えし)の表現(ひょうげん)と較(くら)べて、平坦(へいたん)な江(え)の島(しま)は山水画(さんすいが)を思(おも)わせます。
冨(ふ)嶽(がく)三(さん)十(じゅう)六(ろっ)景(けい) 相州(そうしゅう)江(え)の嶌(しま)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)5年(ねん)(1834)頃(ころ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 本作(ほんさく)は今回(こんかい)のテーマ からはずれますが、片瀬(かたせ)から見(み)た江(え)の島(しま)を描(えが)いた風景(ふうけい)です。(本(ほん)シリーズは現在(げんざい)2点(てん)のみ確認(かくにん)されています)構図(こうず)としては、江(え)の島(しま)を高(たか)い視点(してん)から見(み)おろすように捉(とら)え、前景(ぜんけい)に七面山(しちめんざん)、中(ちゅう)景(けい)に龍口寺(りゅうこうじ)の門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)を配置(はいち)し、正面(しょうめん)には潮(しお)の引(ひ)いた道(みち)を江(え)の島(しま)へ向(むか)う人々(ひとびと)が点(てん)のように描(えが)かれています。 片瀬(かたせ)は江(え)の島(しま)に直面(ちょくめん)する陸地(りくち)の部分(ぶぶん)ですが、このように画題(がだい)として取(と)り上(あ)げられるものはあまりなく、珍(めずら)しい図柄(ずがら)の作品(さくひん)と言(い)えるでしょう。画題(がだい)にある七面山(しちめんざん)は旅人(たびびと)が休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)の山(やま)で、日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)の裏山(うらやま)にあたります。 この作品(さくひん)はシリーズものとして出版(しゅっぱん)する予定(よてい)であったらしいのですが、2回(かい)しか完成(かんせい)していません。もう一(ひと)つは「東海道之内(とうかいどうのうち)江之嶋(えのしま)路(じ)七里ヶ浜(しちりがはま)江(え)ノ嶋(しま)遠望(えんぼう)」です。画題(がだい)には片瀬(かたせ)とあり、片瀬(かたせ)は江(え)の島(しま)に直面(ちょくめん)する陸地(りくち)の部分(ぶぶん)ですから、江(え)の島(しま)を描(えが)けば当然(とうぜん)その一部(いちぶ)は浮世絵(うきよえ)に出(で)てきますが、このように画題(がだい)として取(と)り上(あ)げられるものは少(すく)ないようです。そして七面山(しちめんざん)から見(み)た図(ず)であると画題(がだい)にあるとおり、構図(こうず)では旅人(たびびと)が休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)の山(やま)の部分(ぶぶん)がそれに該当(がいとう)します。 七面山(しちめんやま)は日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)の裏山(うらやま)で、龍口寺(りゅうこうじ)は今(いま)でも広(ひろ)い境内(けいだい)と敷地(しきち)がありますが、日蓮(にちれん)ゆかりの地(ち)でもあります。図柄(ずがら)としても他(た)の浮世絵(うきよえ)とは違(ちが)っていて、江(え)の島(しま)を高(たか)い視点(してん)から見(み)おろすように捉(とら)え、前景(ぜんけい)に七面山(しちめんざん)、中景(ちゅうけい)に龍口寺(りゅうこうじ)の門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)を配置(はいち)していて、ちょうど正面(しょうめん)には潮(しお)の引(ひ)いた道(みち)を江(え)の島(しま)へ向(むか)う人々(ひとびと)が点(てん)のように描(えが)かれています。
東海道(とうかいどう)之(の)内江(うちえ)之(の)嶋路(しまみち)片瀬(かたせ)自(しち)七(めん)面(ざん)山見(よりはま)浜辺(べをみる)
制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ねん)(1853)。 板元(はんもと):若与(わかよ) 立派(りっぱ)な乗(の)り物(もの)に乗(の)った貴人(きじん)が江(え)の島(しま)参詣(さんけい)を終(お)えて、片瀬(かたせ)浜(はま)を小動(こゆるぎ)崎(さき)を経(へ)て七里ガ浜(しちりがはま)に向(むか)うところでしょうか。 挟箱(はさみばこ)を先頭(せんとう)に長刀(なぎなた)、羅紗(らしゃ)入(いり)袋(ふくろ)の日傘(ひがさ)、腰(こし)物(もの)筒(づつ)、履物(はきもの)持(もち)など行列(ぎょうれつ)の威儀(いぎ)を正(ただ)し、御殿(ごてん)女中(じょちゅう)たちは揃(そろ)いの梅(うめ)の模様(もよう)の着物(きもの)に揃(そろ)いの日傘(ひがさ)を差(さ)し、物(もの)持(も)ちは藤花(ふじはな)や麻(あさ)の葉(は)模様(もよう)の振袖(ふりそで)姿(すがた)、4人(にん)の六尺(ろくしゃく)が担(かつ)ぐ緋色(ひいろ)に松竹梅(しょうちくばい)の模様(もよう)の羅紗(らしゃ)の日覆(ひおおい)をかけた乗物(のりもの)の周囲(しゅうい)には、色(いろ)とりどりの裲襠(うちかけ)姿(すがた)の上臈(じょうろう)たちがいて、その後(うしろ)には菅傘(すげがさ)の侍(さむらい)の列(れつ)が続(つづ)いています。この乗物(のりもの)の主(あるじ)は、相当(そうとう)身分(みぶん)の高(たか)い大名(だいみょう)の奥方(おくがた)か大奥(おおおく)の行列(ぎょうれつ)を想像(そうぞう)させます。 江(え)の島(しま)弁財天(べんざいてん)は家康(いえやす)が慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600年(ねん))に関東(かんとう)に下向(げこう)したときに参詣(さんけい)して以来(いらい)、代々(だいだい)の将軍家(しょうぐんけ)の祈祷(きとう)所(しょ)となったことや、五代(ごだい)将軍(しょうぐん)綱吉(つなよし)の病気(びょうき)が杉山検校(すぎやまけんぎょう)の祈祷(きとう)と治療(ちりょう)によって平癒(へいゆ)したこともあって、大奥(おおおく)及(およ)び諸(しょ)大名(だいみょう)からの信仰(しんこう)を多(おお)く集(あつ)めたといわれています。上空(じょうくう)に飛(と)ぶ二羽(にわ)の鶴(つる)に大奥(おおおく)の参詣(さんけい)の行列(ぎょうれつ)であることを、広重(ひろしげ)はそれとなく表現(ひょうげん)しているように思(おも)われます。
江(え)のしま参詣(さんけい)の図(ず)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)4年(ねん)(1833)頃(ころ)。 板元(はんもと):川長(かわちょう) 江(え)の島(しま)が画面(がめん)一杯(いっぱい)に描(えが)かれ、将来(しょうらい)展開(てんかい)されるべきさまざまな要素(ようそ)が含(ふく)まれています。色彩(しきさい)的(てき)には藍(あい)や緑(みどり)がかなり強(つよ)く出(で)ていて、後(のち)のおさえた色調(しきちょう)のそれとは異(こと)なっていますが、空間(くうかん)の処理(しょり)の仕方(しかた)に広(ひろ)がりを見(み)せています。また前景(ぜんけい)として、いく分(ぶん)、類型(るいけい)的(てき)な三角形(さんかっけい)の大(おお)きな波(なみ)も広重(ひろしげ)らしい特徴(とくちょう)を表(あらわ)しています。 岩場(いわば)で遊(あそ)ぶ人々(ひとびと)、右(みぎ)1枚(まい)の部分(ぶぶん)には、それが平坦(へいたん)であるため俎板(まないた)岩(いわ)(魚板(ぎょばん)岩(がん))といわれる所(ところ)にござを敷(し)き、酒(さけ)をくみ交(か)わしている場面(ばめん)があり、中(なか)1枚(まい)には女性(じょせい)に何(なに)かをねだる裸(はだか)の子(こ)どもがいます。さらに左(ひだり)1枚(まい)には旅人(たびびと)が銭(ぜに)を投(な)げる仕草(しぐさ)をしていて、その銭(ぜに)を海中(かいちゅう)に飛(と)び込(こ)んで拾(ひろ)おうとする子(こ)どもがいて、江(え)の島(しま)での旅人(たびびと)の風俗(ふうぞく)が端的(たんてき)に画面(がめん)に出(で)ている描写(びょうしゃ)となっています。
相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)岩屋(いわや)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):安政(あんせい)3年(ねん)(1856)。 板元(はんもと):山口藤兵衛(やまぐちとうべえ) 神奈川(かながわ)・・・浦島寺(うらしまでら)の故事(こじ) 神奈川宿(かながわしゅく)には浦島太郎(うらしまたろう)の伝説(でんせつ)をもつ浦島寺(うらしまでら)と呼(よ)ばれる寺(てら)がありました。物語(ものがたり)の終盤(しゅうばん)で、玉手箱(たまてばこ)から出(で)た煙(けむり)を浴(あ)び、老人(ろうじん)の姿(すがた)になっていっていく様子(ようす)が描(えが)かれています。 程(ほど)かや・・・橋脚(きょうきゃく) 帷子川(かたびらがわ)に架(か)かる帷子橋(かたびらばし)の橋脚(きょうきゃく)が描(えが)かれています。保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)を代表(だいひょう)する風景(ふうけい)としてよく取(と)り上(あ)げられています。 戸塚(とつか)・・・大坂(おおさか)の景色(けしき) 戸塚宿(とつかしゅく)の西(にし)に位置(いち)する大阪(おおさか)の景色(けしき)です。富士見(ふじみ)の名所(めいしょ)として知(し)られていました。 藤沢(ふじさわ)・・・照天姫(てるてひめ) 照天姫(てるてひめ)は、藤沢(ふじさわ)にゆかりのある伝説(でんせつ)の人物(じんぶつ)・小栗判官(おぐりはんがん)の恋人(こいびと)です。 広重(ひろしげ)は風景(ふうけい)を中心(ちゅうしん)とした東海道(とうかいどう)ものを多(おお)く描(えが)いていますが、この画(え)の様(よう)な異(こと)なったタイプのシリーズも残(のこ)しています。これは一般(いっぱん)に張交東海道(はりまぜとうかいどう)といわれるもので、1枚(まい)の中(なか)に3~5宿(しゅく)の風景(ふうけい)、名産(めいさん)、物語(ものがたり)等(とう)が挿入(そうにゅう)されています。
東海道(とうかいどう)張(はり)交(まぜ)図会(ずえ) 加奈川(かながわ) 程(ほど)かや 戸塚(とつか) 藤沢(ふじさわ)(山藤(やまふじ)版(ばん))
制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1844~1853)頃(ころ)。 板元(はんもと):住政(すみまさ) これは「相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)参詣(さんけい)群衆(ぐんしゅう)之(の)図(ず)」と同時(どうじ)に江戸(えど)の四谷(よつや)傳馬(でんま)町(まち)二丁目(にちょうめ)の住吉屋(すみよしや)から刊行(かんこう)された作品(さくひん)で、江(え)の島(しま)弁財天(べんざいてん)を参詣(さんけい)するために参道(さんどう)に列(れつ)をつくった女(おんな)講中(こうじゅう)音曲(おんぎょく)連中(れんちゅう)のその後(ご)版(ばん)とも言(い)えるものです。 画面(がめん)左(ひだり)の岩場(いわば)や参道(さんどう)に角(かく)木瓜(もっこう)の日傘(ひがさ)の常磐津(ときわづ)節(ぶし)、中央(ちゅうおう)の三本(さんぼん)杵(きね)は江戸(えど)長唄(ながうた)の杵屋(きねや)、菱(ひし)に三(み)つ柏(かしわ)は清元(きよもと)節(ぶし)、桜草(さくらそう)の宮本(みやもと)節(ぶし)も右(みぎ)の平(たいら)な俎板(まないた)岩(いわ)の上(うえ)で緋毛氈(ひもうせん)を広(ひろ)げ酒肴(さけさかな)を楽(たの)しんでいます。その傍(はた)では釣(つ)りをする清元節(きよもとぶし)の女性(じょせい)たちもいます。 三々五々(さんさんごご)岩場(いわば)巡(めぐ)りをしたり、本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)に詣(もうで)たり、裸(はだか)の子供(こども)たちに投銭(なげせん)をしてそれを海中(かいちゅう)で拾(ひろ)わせたりして芸者(げいしゃ)が楽(たの)しむ有様(ありさま)は、天保(てんぽう)9年(ねん)(1830年(ねん))に書(か)かれた『富士大(ふじおお)山道(やまどう)中(ちゅう)雑記(ざっき)附(つき)江(え)之(の)嶋(しま)鎌倉(かまくら)』にも「…嶋(しま)入口(いりぐち)并(ならびに)此所(このところ)にても子供(こども)数多(あまた)居(おり)、少々(しょうしょう)の出銭(でせん)にて海中(かいちゅう)え飛入(とびい)り、種々(しゅじゅ)の芸事(げいごと)いたし候(そうろう)事(こと)」とあります。当時(とうじ)の江(え)の島(しま)詣(もうで)の様子(ようす)をよく表現(ひょうげん)しています。 画題(がだい)にある「本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)」は、窟(いわや)弁財天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)に合(あ)わせて刊行(かんこう)されたことを証明(しょうめい)しているといっても過言(かごん)ではありません。
相州(そうしゅう)江(え)の嶋(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)詣(もうで)本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)の図(ず)