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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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版元(はんもと) 鉛(なまり)屋(や)安兵衛(やすべえ) 文政(ぶんせい)7年(ねん)(1824) 大坂(おおさか)で出版(しゅっぱん)された江戸(えど)市中(しちゅう)の呉服(ごふく)や武具(ぶぐ)、薬(くすり)など様々(さまざま)な買物(かいもの)や飲食店(いんしょくてん)の商店(しょうてん)約(やく)2600店(てん)を紹介(しょうかい)するガイドブックです。店舗(てんぽ)の広告(こうこく)も兼(か)ねていたため広告(こうこく)料(りょう)をとったとも言(い)われます。 挿絵(さしえ)を葛飾北斎(かつしかほくさい)、序文(じょぶん)を大田(おおた)南畝(なんぽ)の当時(とうじ)の人気(にんき)絵師(えし)と随筆家(ずいひつか)に依頼(いらい)したかなりの熱量(ねつりょう)で編纂(へんさん)されており、ベストセラーとして全国(ぜんこく)に流布(るふ)されていたようです。 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の死後(しご)の刊行(かんこう)であり小伝馬町(こでんまちょう)に移転(いてん)していますが、新吉原(しんよしわら)細見(さいけん)版本(はんぽん)と記載(きさい)されており、二代目(だいめ)がしっかりと稼業(かぎょう)を引(ひ)き継(つ)いでいたこともうかがえます。
江戸(えど)買物(かいもの)独(ひとり)案内(あんない)
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、吉原(よしわら)に創業(そうぎょう)した版本(はんぽん)の小売店(こうりてん)から身(み)を起(お)こしました。固定客(こていきゃく)が見込(みこ)める吉原(よしわら)細見(さいけん)や富本節(とみもとぶし)などの版本(はんぽん)の販売(はんばい)する権利(けんり)を得(え)ながら店舗(てんぽ)を拡大(かくだい)していきました。 吉原(よしわら)細見(さいけん) 吉原(よしわら)細見(さいけん)は、吉原(よしわら)のガイド本(ぼん)として販売(はんばい)されていました。展示(てんじ)の吉原(よしわら)細見(さいけん)は天保(てんぽう)期(き)の発刊(はっかん)です。 富本節(とみもとぶし)正本(せいほん)「道行(みちゆき)野辺(のべ)之(の)書置(かきおき)」 富本節(とみもとぶし)は、三味線(しゃみせん)を演奏(えんそう)しながら物語(ものがたり)に節(ふし)をつけて唄(うた)う浄瑠璃(じょうるり)から派生(はせい)した謡曲(ようきょく)の一種(いっしゅ)です。義太夫(ぎだゆう)とも呼(よ)ばれます。正本(せいほん)は歌詞(かし)や節(ふし)の上(あ)げ下(さ)げなどを記述(きじゅつ)した譜面(ふめん)の役割(やくわり)であり、富本節(とみもとぶし)正本(せいほん)は義太夫(ぎだゆう)ブームを背景(はいけい)にかなりの販売(はんばい)数(すう)を誇(ほこ)り、蔦屋(つたや)の運営(うんえい)上(じょう)の基盤(きばん)となる主力(しゅりょく)商品(しょうひん)でした。「道行(みちゆき)野辺(のべ)之(の)書置(かきおき)」は、鶴屋(つるや)南北(なんぼく)の「心(しん)中天(じゅうてん)之(の)網島(あみしま)」から派生(はせい)した通称(つうしょう)「紙治(かみじ)物(もの)」と呼(よ)ばれる、紙屋(かみや)治兵衛(じへえ)とこはるの心中(しんじゅう)話(はなし)の富本節(とみもとぶし)での別称(べっしょう)のひとつです。展示(てんじ)中(ちゅう)の版本(はんぽん)は、三代目(だいめ)富本(とみもと)豊前太夫(ぶぜんだゆう)による正本(せいほん)で、文化(ぶんか)年間(ねんかん)頃(ごろ)の版行(はんこう)です。蔦屋(つたや)の在所(ざいしょ)も通(とおり)油町(あぶらちょう)から移転(いてん)し浅草寺(せんそうじ)雷(らい)門前(もんまえ)並木町(なみきちょう)東側(ひがしがわ)になっています。
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の発展(はってん)の足掛(あしが)かりとなった版本(はんぽん)
版元(はんもと) 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう) 開板(かいはん) 江戸(えど)から小湊(こみなと)(現(げん)千葉県(ちばけん)鴨川市(かもがわし))の誕生寺(たんじょうじ)までの道中(どうちゅう)を記(しる)した版本(はんぽん)です。日蓮(にちれん)の弟子(でし)である日(に)家(か)が日蓮(にちれん)の生家(せいか)跡(あと)に高(こう)光山(こうさん)日蓮(にちれん)誕生寺(たんじょうじ)として鎌倉時代(かまくらじだい)の1276年(ねん)(建治(けんじ)2年(ねん))建立(こんりゅう)されました。山号(さんごう)は小湊(こみなと)山(さん)です。 喜多川(きたがわ)歌麿(うたまろ)がその雅号(がごう)を名乗(なの)る直後(ちょくご)に挿(さし)絵(え)を描(か)いた版本(はんぽん)として知(し)られますが、現存(げんそん)数(すう)が極(きわ)めて少(すく)なく展示(てんじ)された記録(きろく)をみつけることは難(むずか)しく、浮世絵(うきよえ)研究者(けんきゅうしゃ)の渋井清(しぶいきよし)氏(し)の著書(ちょしょ)で部分的(ぶぶんてき)に掲載(けいさい)されているものがみられるだけです。跋(ばつ)(奥書(おくがき))を大田(おおた)南畝(なんぽ)が書(か)いているところも、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)との関係性(かんけいせい)をみることができます。
古湊(こみなと)道中記(どうちゅうき)
販売(はんばい)物(ぶつ)ではない私家(しか)版(ばん)の浮世絵(うきよえ)である摺物(すりもの)です。本作品(ほんさくひん)は全(ぜん)15枚(まい)続(つづ)きのうちの1枚(まい)です。 作品(さくひん)名(めい)にある鎌倉(かまくら)志(し)は、徳川(とくがわ)光圀(みつくに)が、貞享(じょうきょう)2年(ねん)(1674)に鎌倉(かまくら)を巡視(じゅんし)した見聞録(けんぶんろく)「新編(しんぺん)鎌倉(かまくら)志(し)」からきています。同(おな)じく題名(だいめい)にある歌橋(うたはし)は、鎌倉時代(かまくらじだい)に謀反(むほん)で疑(うたが)われた渋川(しぶかわ)兼守(かねもり)という武将(ぶしょう)が荏柄(えがら)天神(てんじん)に和歌(わか)を奉納(ほうのう)し、その歌(うた)が将軍(しょうぐん)の源実朝(みなもとのさねとも)に認(みと)められ許(ゆる)された故事(こじ)からきています。その後(あと)、兼守(かねもり)が鎌倉(かまくら)の二階堂(にかいどう)川(かわ)に橋(はし)を寄進(きしん)したためその橋(はし)は歌橋(うたはし)と呼(よ)ばれるようになりました。一人目(ひとりめ)の狂歌(きょうか)の詠(よ)み人(びと)は相州(そうしゅう)雨降(あめふらし)山(やま)と記(しる)されているように神奈川県(かながわけん)伊勢原市(いせはらし)の大山(おおやま)に在(ざい)していたと思(おも)われます。
鎌倉(かまくら)志(し) 荏柄(えがら)天神(てんじん) 歌橋(うたはし)
元禄(げんろく)11年(ねん)(1698)に出版(しゅっぱん)された版本(はんぽん)です、江戸(えど)後期(こうき)の「七福神(しちふくじん)」の選定(せんてい)に関(かん)する内容(ないよう)が書(か)かれています。摩訶(まか)阿頼耶(あらや)によると「七福神(しちふくじん)」のメンバーは以下(いか)となります。 1) 吉祥天(きっしょうてん) 2) 弁財天(べんざいてん) 3) 多聞天(たもんてん)王(おう)(毘沙門(びしゃもん)) 4) 大黒天(だいこくてん)神(じん) 5) 布袋(ほてい)和尚(おしょう) 6) 南極(なんきょく)老人(ろうじん) 7) 蛭子(えびす)三郎(さぶろう) 各(かく)柱(ちゅう)についての記述(きじゅつ)にはそれぞれが祀(まつ)られている神社(じんじゃ)(例(れい):弁財天(べんざいてん)の場合(ばあい)は「江州(えしゅう)竹生島(ちくぶじま)」や「相州(そうしゅう)江島(えのしま)」と書(か)かれている)やその他(ほか)の呼(よ)び名(な)・通称(つうしょう)、また他(ほか)の七福神(しちふくじん)との関係性(かんけいせい)(例(れい):蛭子(えびす)三郎(さぶろう)と大黒(だいこく)神(しん)の場合(ばあい)「二福神(ふくじん)」の信仰(しんこう)対象(たいしょう)として人気(にんき)を博(はく)した過去(かこ)など)も述(の)べています。
日本(にほん)七福神(しちふくじん)伝(でん)
江戸(えど)の地誌(ちし)と名所(めいしょ)について記(しる)された全(ぜん)20巻(かん)からなる地誌(ちし)です。 斎藤家(さいとうけ)は徳川(とくがわ)家康(いえやす)の江戸(えど)入府(にゅうふ)の天正(てんしょう)18年(ねん)(1590年(ねん))以前(いぜん)からの名主(なぬし)であり、草創(そうそう)名(な)主(ぬし)として有名(ゆうめい)な家柄(いえがら)でした。祖父(そふ)の斎藤(さいとう)長秋(ちょうしゅう)(幸雄(ゆきお))の代(だい)から東都(とうと)名所図会(めいしょずえ)として編纂(へんさん)が始(はじ)まり、父(ちち)の莞(かん)斎(さい)(幸孝(ゆきたか))、そして月岑(げっしん)(幸成(ゆきなり))の三世代(せだい)が引(ひ)き継(つ)ぎながら編纂(へんさん)し発行(はっこう)しました。江戸(えど)名所図会(めいしょずえ)は刊行(かんこう)時(じ)の書名(しょめい)です。武蔵(むさし)、江戸(えど)から相模(さがみ)、下総(しもうさ)の一部(いちぶ)までの地名(ちめい)の由来(ゆらい)や寺社(じしゃ)、旧跡(きゅうせき)、故事(こじ)などについて記(しる)しており、当時(とうじ)から名著(めいちょ)としてしられ、現代(げんだい)でも江戸時代(えどじだい)の景観(けいかん)や風俗(ふうぞく)を研究(けんきゅう)する上(うえ)では欠(か)かせない一級(いっきゅう)資料(しりょう)です。 また月岑(げっしん)は、大田(おおた)南畝(なんぼ)が編纂(へんさん)したと伝(つた)わる浮世絵師(うきよえし)の記録(きろく)誌(し)「浮世絵(うきよえ)類(るい)考(こう)」の増補(ぞうほ)を編纂(へんさん)したことでも知(し)られています。 挿絵(さしえ)の長谷川雪旦(はせがわせったん)は俯瞰(ふかん)的(てき)な描写(びょうしゃ)を得意(とくい)とした絵師(えし)で、唐津(からつ)藩(はん)(現在(げんざい)の佐賀県(さがけん)の一部(いちぶ))、尾張(おわり)藩(はん)(現在(げんざい)の愛知県(あいちけん)の一部(いちぶ))の御用(ごよう)絵師(えし)でもありました。月岑(げっしん)、雪旦(せったん)のコンビは同(おな)じく江戸(えど)の年中(ねんちゅう)行事(ぎょうじ)を記(しる)した「東都(とうと)歳時記(さいじき)」も刊行(かんこう)しています。
東都(とうと)名所図会(めいしょずえ)(江戸(えど)名所図会(めいしょずえ))
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)6(1809)年(ねん)。板元(はんもと):森屋治兵衛(もりやじへえ) 歌麿(うたまろ)は天明(てんめい)7年(ねん)(1787年(ねん))頃(ころ)には上野(うえの)忍岡(しのぶがおか)御数寄屋町(おすきやまち)に住(す)み、のち板元(はんもと)蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)方(かた)に寄宿(きしゅく)しています。その援助(えんじょ)を受(う)け独特(どくとく)の美人画(びじんが)を制作(せいさく)しています。特(とく)に寛政(かんせい)3年(ねん)頃(ごろ)より美人(びじん)大首絵(おおくびえ)という女性(じょせい)の上半身(じょうはんしん)を描(えが)いた作品(さくひん)が評判(ひょうばん)となります。 この作品(さくひん)は江(え)の島(しま)を描(えが)いたという判然(はんぜん)とした確証(かくしょう)はありませんが、右(みぎ)の1枚(まい)に開帳(かいちょう)の文字(もじ)が入(はい)った提灯(ちょうちん)があり、江(え)の島(しま)の雰囲気(ふんいき)を漂(ただよ)わせています。この図(ず)の主題(しゅだい)は美人画(びじんが)ですが、子(こ)どもの泳(およ)ぐさまを見物(けんぶつ)している体裁(ていさい)を取(と)っています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう))
十(じゅう)二(に)枚(まい)揃(そろい)の最後(さいご)の作品(さくひん)で、機織(はたお)り(はたおり)の様子(ようす)が描(えが)かれています。織機(しょっき)に座(すわ)る髪(かみ)を下(くだ)した女性(じょせい)が、手足(てあし)を使(つか)って絹(きぬ)を織(お)っており、右手(みぎて)には杼(ひ)(ひ)を手(て)にしています。 本作(ほんさく)は二(に)枚(まい)続(つづき)の作品(さくひん)のうちの一(いち)枚(まい)で、もう一(いち)枚(まい)には養蚕(ようさん)と日本(にっぽん)が古(ふる)くから結(むす)びついていたとする歴史(れきし)について記(しる)されています。 (上部(じょうぶ)詞書(ことばがき)) 「蚕(かいこ)の神(かみ)を祭(まつ)る事(こと)ハむかし 軻遇突智(かぐつち)(かぐつち)埴山(はにやま)姫(ひめ)(はにやまひめ)に逢(あ)いて 雅(わか)産(むす)霊(び)(わかむすび)を産(うみ) 此(この)神(かみ)の頭(あたま)に蚕(かいこ)と桑(くわ)となれり 故(ゆえ)に 日本(にっぽん)にてハ雅(わか)産(むす)霊(び)を祭(まつ)るへきものか 人皇(じんこう)二(に)十(じゅう)二(に)代(だい) 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう) 乃(の) 御(ご)后(きさき) みつから養蚕(ようさん)し給(たま)ふ 唐土(とうど)にてハ黄帝(こうてい)の后(きさき) 西(にし)綾(あや)氏(し)を始(はじめ)とする也(なり)」
女(じょ)織(しょく)蚕(かいこ)手業(てわざ)草(ぐさ) 十二(じゅうに)