Fujisawa Net Museum

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大坂(おおさか)綿屋(わたや)喜兵衛(きへえ)(ばん) 天保(てんぽう)嘉永(かえい)(1830-1854(ねん)(ごろ)

東海道(とうかいどう)道中双六(どうちゅうすごろく)には、様々(さまざま)要素(ようそ)()()まれましたが、享和(きょうわ)2(ねん)(1802(ねん))に出版(しゅっぱん)された十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』が(だい)流行(りゅうこう)すると、その内容(ないよう)()()んだ双六(すごろく)(おお)(あらわ)れました。この双六(すごろく)もその(ひと)つで、それぞれのマスに(えが)かれている情景(じょうけい)が、『膝栗毛(ひざくりげ)』のワンシーンであったり、出発(しゅっぱつ)()東海道(とうかいどう)起点(きてん)日本橋(にほんばし)ではなく、『膝栗毛(ひざくりげ)』の主人公(しゅじんこう)()神田(かんだ)八丁堀(はっちょうぼり)になっていたりと、随所(ずいしょ)物語(ものがたり)双六(すごろく)内容(ないよう)関連(かんれん)づけるような工夫(くふう)()られます。出版(しゅっぱん)(版元(はんもと))の綿屋(わたや)喜兵衛(きへえ)大坂(おおさか)本屋(ほんや)で、作者(さくしゃ)(絵師(えし))の歌川(うたがわ)(こく)(ます)大坂(おおさか)浮世絵師(うきよえし)です。

五十三駅(ごじゅうさんつぎ)滑稽(こっけい)膝栗毛(ひざくりげ)道中図(どうちゅうず)()双六(すごろく)

一色下(いっしきした)遺跡(いせき)は、桐原(きりばら)工業団地(こうぎょうだんち)一角(いっかく)にある桐原(きりばら)公園(こうえん)南西(なんせい)方向(ほうこう)引地川(ひきじがわ)支流(しりゅう)である一色川(いっしきがわ)西岸(せいがん)台地(だいち)縁辺(えんぺん)()位置(いち)しています。遺跡(いせき)所在(しょざい)する場所(ばしょ)字名(あざめい)石川(いしかわ)ですが、藤沢市(ふじさわし)(いき)13地区(ちく)区分(くぶん)によると遠藤(えんどう)地区(ちく)(ぞく)しています。
 1968(ねん)昭和(しょうわ)43(ねん))、整地(せいち)工事(こうじ)(ちゅう)縄文土器(じょうもんどき)発見(はっけん)され、遺跡(いせき)存在(そんざい)確認(かくにん)されました。この縄文土器(じょうもんどき)は、2(てん)(なら)んで、地面(じめん)()埋設(まいせつ)された状態(じょうたい)発見(はっけん)されました。この埋設(まいせつ)土器(どき)周辺(しゅうへん)状況(じょうきょう)から住居(じゅうきょ)にともなうものではなく、住居(じゅうきょ)(がい)遺構(いこう)(かんが)えられるものです。しかし、正式(せいしき)発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)(おこな)われなかったため、この遺構(いこう)性格(せいかく)遺跡(いせき)全体(ぜんたい)様子(ようす)はわかっていません。

二つの埋設土器

一色下(いっしきした)遺跡(いせき)

石川(いしかわ)遺跡(いせき)引地川(ひきじがわ)右岸(うがん)小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)六会日大前駅(むつあいにちだいまええき)南西(なんせい)(やく)2kmの、引地川(ひきじがわ)西岸(せいがん)標高(ひょうこう)35m前後(ぜんご)台地(だいち)(じょう)(ひろ)がる遺跡(いせき)です。藤沢市(ふじさわし)都市計画(としけいかく)事業(じぎょう)北部(ほくぶ)(だい)()()地区(ちく)土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)にともなって、1989(ねん)平成元年(へいせいがんねん))から1991(ねん)平成(へいせい)(ねん))まで発掘調査(はっくつちょうさ)(おこな)われました。発掘調査(はっくつちょうさ)では古墳時代(こふんじだい)から平安時代(へいあんじだい)竪穴(たてあな)建物(たてもの)土師器(はじき)須恵器(すえき)などが確認(かくにん)されています。(ほん)遺跡(いせき)西(にし)には(どう)時期(じき)集落(しゅうらく)確認(かくにん)されている(みなみ)鍛冶山(かじやま)遺跡(いせき)(しも)()遺跡(いせき)所在(しょざい)しており、(ほん)遺跡(いせき)周辺(しゅうへん)(だい)集落(しゅうらく)形成(けいせい)されていたことが判明(はんめい)しています。

石川遺跡 掘立柱建物検出状況

石川(いしかわ)遺跡(いせき)

(しも)()遺跡(いせき)引地川(ひきじがわ)右岸(うがん)小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)六会日大前駅(むつあいにちだいまええき)南西(なんせい)(やく)2kmの、引地川(ひきじがわ)西岸(せいがん)標高(ひょうこう)35m前後(ぜんご)台地(だいち)(じょう)(ひろ)がる遺跡(いせき)です。藤沢市(ふじさわし)都市計画(としけいかく)事業(じぎょう)北部(ほくぶ)(だい)()()地区(ちく)土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)にともなって、1983(ねん)昭和(しょうわ)58(ねん))から1987(ねん)昭和(しょうわ)62(ねん))まで発掘調査(はっくつちょうさ)(おこな)われました。発掘調査(はっくつちょうさ)では古墳時代(こふんじだい)後期(こうき)円墳(えんふん)や、古墳時代(こふんじだい)から平安時代(へいあんじだい)竪穴(たてあな)建物(たてもの)土師器(はじき)須恵器(すえき)灰釉陶器(かいゆうとうき)などが確認(かくにん)されています。(ほん)遺跡(いせき)(ひがし)には(どう)時期(じき)集落(しゅうらく)確認(かくにん)されている(みなみ)鍛冶山(かじやま)遺跡(いせき)石川(いしかわ)遺跡(いせき)所在(しょざい)しており、(ほん)遺跡(いせき)周辺(しゅうへん)(だい)集落(しゅうらく)形成(けいせい)されていたことが判明(はんめい)しています。

下ノ根遺跡 円墳検出状況

(しも)()遺跡(いせき)



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