ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)末(まつ)頃(ごろ) 物産(ぶっさん)をテーマとした一(いち)枚(まい)絵(え)の組物(くみもの)として早(はや)い時期(じき)のものです。 国芳(くによし)の晩年(ばんねん)の嘉永(かえい)期(き)に制作(せいさく)されたものに「山海(さんかい)愛(あい)度(ど)図会(ずえ)」のシリーズがありますが、国芳(くによし)はここでも相模(さがみ)は堅魚(かつお)を採用(さいよう)し、「山海(さんかい)目(め)出(で)たい図会(ずえ)くせが直(なお)したい相州(そうしゅう)鰹(かつお)魚釣(さかなつり)」としています。
山海(さんかい)名産(めいさん)盡(つ) 相模(さがみ)ノ堅魚(かつお)
江(え)の島(しま)に詣(もう)でる人気役者達(にんきやくしゃたち)が描(えが)かれます。ファンにとっては役者達(やくしゃたち)のオフの姿(すがた)が見(み)られる作品(さくひん)であったと言(い)えるでしょう。本作(ほんさく)は1857年(ねん)の江(え)の島(しま)弁才天(べんざいてん開帳(かいちょうに向(む)けて制作(せいさく)された作品(さくひん)であると考(かんが)えられます。また落款(らっかん)の文字(もじ)から、作者(さくしゃ)の国貞(くにさだ)(三代(さんだい)豊国(とよくに))による想像(そうぞう)で描(えが)かれた役者達(やくしゃたち)の江(え)の島(しま)詣(もうで)であると思(おも)われます。
江(え)之(の)嶋(しま)乃(の)景(けい)
制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)4月(しがつ)。 板元(はんもと):村市(むらいち) 安政(あんせい)6年(ねん)(1859年(ねん))に二代(にだい)歌川広重(うたがわひろしげ)を継(つ)いだ重宣(しげのぶ)は、重宣(しげのぶ)を名乗(なの)っている初期(しょき)の時代(じだい)(弘化(こうか)~安政(あんせい)5年(ねん))は初代(しょだい)の画風(がふう)を習(なら)い、風景画(ふうけいが)の模倣(もほう)や美人画(びじんが)・花鳥画(かちょうが)を描(えが)いています。この作品(さくひん)は「相州(そうしゅう)江(え)のしま詣(もうで)の図(ず)、七里(しちり)が浜(はま)真景(しんけい)」の構図(こうず)を人物(じんぶつ)の向(む)きや動(うご)きを少(すこ)し変(か)えて模倣(もほう)したもので、現状(げんじょう)は大判(おおばん)縦(たて)1枚(いちまい)ですが、最初(さいしょ)は師(し)と同(おな)じ大判(おおばん)縦(たて)3枚(さんまい)続(つづき)の構成(こうせい)で、中央(ちゅうおう)の1枚(まい)が残(のこ)ったと考(かんが)えられるものです。 そして更(さら)にこの図(ず)は彼自身(かれじしん)の作(さく)である「相州(そうしゅう)七里ヶ浜(しちりがはま)」大判(おおばん)3枚(まい)続(ぞく)、万延(まんえん)元年(がんねん)(1860年(ねん))刊(かん)板元(はんもと)萬屋(よろずや)の、中央(ちゅうおう)の1枚(まい)に座(すわ)って貝(かい)ひろいをしている女性(じょせい)の向(む)きを変(か)えただけで流用(りゅうよう)していることからも、七里ガ浜(しちりがはま)を描(えが)いた同(おな)じ図柄(ずがら)の3枚(まい)続(つづ)きであったことが知(し)られます。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)貝(かい)ひろい)
制作(せいさく)時期(じき):文久(ぶんきゅう)元年(がんねん)(1861)。 板元(はんもと):森治(もりはる) 手前(てまえ)には豪華(ごうか)な着物(きもの)を着(き)た男性(だんせい)と、腰元(こしもと)風(ふう)の女性(じょせい)、また貝(かい)拾(ひろ)いをする少女(しょうじょ)が描(えが)かれています。駕籠(かご)に乗(の)って江(え)の島(しま)へ参詣(さんけい)にやってきた様子(ようす)です。このような絵(え)は「源氏絵(げんじえ)」と呼(よ)ばれますが、平安時代(へいあんじだい)の源氏物語(げんじものがたり)を題材(だいざい)にした絵(え)ではなく、国貞(くにさだ)が挿絵(さしえ)を描(えが)いた合巻(ごうかん)『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)(にせむらさきいなかげんじ)』(1829~42)の登場人物(とうじょうじんぶつ)が描(えが)かれた作品(さくひん)です。主人公(しゅじんこう)は、足利義政(あしかがよしまさ)の妾腹(しょうふく)の子(こ)という設定(せってい)の光氏(みつうじ)(画面(がめん)右(みぎ)の男性(だんせい))です。背景(はいけい)には、高(たか)さを強調(きょうちょう)して描(えが)かれた江(え)の島(しま)と、そこへ続(つづ)く広々(ひろびろ)とした洲鼻(すばな)(江(え)の島(しま)と陸地(りくち)を繋(つな)ぐ砂州(さす))が配(はい)され、また富士(ふじ)も大(おお)きく描(えが)かれており、名所絵(めいしょえ)としても優(すぐ)れた作品(さくひん)となっています。 二代(にだい)歌川広重(うたがわひろしげ)・三代(さんだい)歌川(うたがわ)豊国(とよくに)の合作(がっさく)で「源氏絵(げんじえ)」の一(ひと)つです。画面(がめん)手前(てまえ)の光(ひかり)の君(きみ)の一行(いっこう)は三代(さんだい)豊国(とよくに)、背景(はいけい)の江(え)の島(しま)や富士山(ふじさん)及(およ)び参詣(さんけい)の人々(ひとびと)は二代(にだい)広重(ひろしげ)が描(えが)いています。『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』の一(いち)場面(ばめん)を描(えが)いたものではなく、光源氏(ひかるげんじ)だけが物語(ものがたり)から離(はな)れて各地(かくち)の名所(めいしょ)を訪(おとず)れるという設定(せってい)がなされています。主人公(しゅじんこう)の光源氏(ひかるげんじ)のスタイルは三代(みじろ)豊国(とよくに)の創案(そうあん)によるもので、大(だい)髷(まげ)の髻(もとどり)に紫(むらさき)紐(ひも)を用(よう)い先(さき)を二(ふた)つに割(わ)った海老(えび)茶筌(ちゃせん)髷(まげ)を結(ゆ)い、歌舞伎(かぶき)の衣裳(いしょう)のような派手(はで)な出(い)で立(た)ちで登場(とうじょう)するのが特徴(とくちょう)となっています。物語(ものがたり)は室町時代(むろまちじだい)に設定(せってい)していますが、風俗(ふうぞく)は江戸(えど)の大奥(おおおく)を思(おも)わせます。以後(いご)このスタイルが「源氏絵(げんじえ)」の定型(ていけい)となります。
相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)
制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)年間(ねんかん)(1844~47)。 板元(はんもと):布吉(ぬのきち) 三代(さんだい)豊国(とよくに)は文政(ぶんせい)12年(ねん)(1829年(ねん))柳亭種彦(りゅうていたねひこ)作(さく)『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』合巻(ごうかん)の挿絵(さしえ)で評判(ひょうばん)となり、弘化(こうか)元年(がんねん)(1844年(ねん))豊国(とよくに)の号(ごう)を継(つ)ぎ、以後(いご)乱作(らんさく)傾向(けいこう)となり画風(がふう)は類型(るいけい)的(てき)となります 。 画面(がめん)は、江(え)の島(しま)と富士(ふじ)を背景(はいけい)に3人(にん)の女性(じょせい)が、それぞれのしぐさで描(えが)かれています。左端(ひだりはし)の女性(じょせい)は火打金(ひうちがね)(右手(みぎて))と火打(ひう)ち石(いし)を打合(うちあわ)せようとしています。また、右端(みぎはし)の女性(じょせい)の持(も)つ煙管(きせる)には疱瘡(ほうそう)除(の)け天然痘(てんねんとう)の赤(あか)い布(ぬの)が巻(ま)き付(つ)けられ、いずれも旅(たび)の安全(あんぜん)を祈(いの)るまじないです。 三代(さんだい)豊国(とよくに)は文政(ぶんせい)12年(ねん)(1829年(ねん))柳亭種彦(りゅうていたねひこ)作(さく)『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』合巻(ごうかん)の挿絵(さしえ)で評判(ひょうばん)となり、弘化(こうか)元年(がんねん)(1844年(ねん))豊国(とよくに)の号(ごう)を継(つ)ぎ、以後(いご)乱作(らんさく)傾向(けいこう)となり画風(がふう)は類型(るいけい)的(てき)となります。他方(たほう)では工芸(こうげい)的(てき)な要素(ようそ)が増(ま)し、美人(びじん)役者(やくしゃ)シリーズものを多(おお)く制作(せいさく)しています。全般的(ぜんぱんてき)には合巻(ごうかん)類(るい)挿絵(さしえ)が多(おお)いようです。文化(ぶんか)と天保(てんぽう)年間(ねんかん)に若干(じゃっかん)読本(どくほん)の挿絵(さしえ)も描(えが)き、更(さら)に天保(てんぽう)中期(ちゅうき)頃(ごろ)風景画(ふうけいが)も描(えが)いています。 この作品(さくひん)は、国貞(くにさだ)改(あらため)二代(にだい)一陽斎(いちようさい)豊国(とよくに)と落款(らっかん)されていて、二代(にだい)豊国(とよくに)の後継(こうけい)のいざこざのあった時期(じき)の作品(さくひん)です。
江(え)の嶌(しま)もうで
牛(うし)を引(ひ)く若(わか)い娘(むすめ)と、旅姿(たびすがた)の女性(じょせい)、荷物(にもつ)持(も)ちの若衆(わかしゅう)が描(えが)かれています。画面中段(がめんちゅうだん)に雲形(くもがた)の枠線(わくせん)が描(えが)かれ、上部(じょうぶ)には江(え)の島(しま)の風景(ふうけい)が配(はい)されますが、人物(じんぶつ)はまるで雲(くも)の上(うえ)を歩(ある)いているような構図(こうず)になっています。牛(うし)を引(ひ)く娘(むすめ)は火打石(ひうちいし)を手(て)にしていることから、牛(うし)に乗(の)った女性(じょせい)の差(さ)し出(だ)す煙管(きせる)に火(ひ)を付(つ)けようとしているのでしょう。また、担(かつ)ぎ棒(ぼう)の上(うえ)に腰掛(こしか)けている若衆(わかしゅ)の荷(に)には、定番(ていばん)の江(え)の島(しま)土産(みやげ)である貝屏風(かいびょうぶ)(貝(かい)がらで絵(え)を作(つく)った屏風(びょうぶ))や、干(ほ)し雲丹(うに)が紐(ひも)に括(くく)り付(つ)けられています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)詣(もうで) 牛(うし)乗(の)り美人(びじん)と若衆(わかしゅう))
製作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい)。 板元(はんもと):芝明神前(しばしんめいまえ)、和泉屋(いずみや)市兵衛(いちべえ) 正月(しょうがつ)にちなんで、日(ひ)の出(で)、恵比寿(えびす)、鯛(たい)という目(め)出(で)たい図柄(ずがら)で構成(こうせい)したものですが、板元(はんもと)の印(しるし)を後(あと)から入(い)れたという疑問(ぎもん)が残(のこ)り、色(いろ)も墨(すみ)ではなく青(あお)っぽいことが気(き)になるところです。
新(しん)板(ばん)浮絵(うきえ) 江(こう)島兒(しまちご)ヶ淵(ふち)
制作時期(せいさくじき):弘化年間(こうかねんかん)(1844~48)頃(ごろ)。 板元(はんもと):佐野(さの)喜(き) 面右(めんみぎ)から左(ひだり)へ弧(こ)を描(えが)いて続(つづ)く七里ヶ浜(しちりがはま)が描(えが)かれ、遠景(えんけい)には右(みぎ)から大山(おおやま)、七面山(しちめんざん)、龍ノ口(たつのくち)、片瀬(かたせ)、南古(なんこ)(南湖(なんご))ノ浦(うら)、不二(ふじ)(富士(ふじ))山(さん)、それに続(つづ)く箱根(はこね)、そして江(え)の島(しま)が見渡(みわた)せます。 手前(てまえ)の人物(じんぶつ) は江(え)の島(しま)参詣(さんけい)を終(お)えて、七里ヶ浜(しちりがはま)を通(とお)って鎌倉(かまくら)の古寺(こじ)を訪(たず)ねる人々(ひとびと)でしょうか。画面(がめん)右(みぎ)より、子(こ)どもの引(ひ)く牛(うし)に乗(の)る女性(じょせい)と、その連(つ)れの徒歩(とほ)の女性(じょせい)が配(はい)され、中央(ちゅうおう)には貝(かい)拾(ひろ)いに興(きょう)じる若(わか)い女性(じょせい)の姿(すがた)、画面(がめん)左(ひだり)には江(え)の島(しま)に向(む)かう道中(どうちゅう)一息(ひといき)入(い)れるために駕籠(かご)から降(お)りようとしている女性(じょせい)がおり、その傍(はた)で額(ひたい)の汗(あせ)を拭(ぬぐ)ったり草履(ぞうり)を揃(そろ)えている駕籠舁(かごかき)も描(えが)かれます。 画面左上隅(がめんひだりうえみす)の囲(かこ)みに「江(え)の島(しま)より鎌倉(かまくら)の道片瀬(みちかたせ)より稲村(いなむら)が崎(さき)まで海辺四十三町(うみべよんじゅうさんまち)、六丁(ろくちょう)を壱里(いちり)にとりて、七里ガ浜名(しちりがはまな)づく風景(ふうけい)の勝地(しょうち)にして諸国(しょこく)の嶋山津々浦々(しまやまつつうらうら)はるか海上(かいじょう)に連(つら)なり、四(よ)時(じ)の壮観(そうかん)他(ほか)に異(こと)なり」とあって、七里ガ浜(しちりがはま)の名(な)の由来(ゆらい)と四季(しき)を通(つう)じて風光明媚(ふうこうめいび)な様子(ようす)を説明(せつめい)しています。画面(がめん)右(みぎ)から左(ひだり)へ弧(こ)を描(えが)いて続(つづ)く七里ガ浜(しちりがはま)が描(えが)かれ、遠景(えんけい)には右(みぎ)から大山(おおやま)、七面山(しちめんざん)、龍ノ口(たつのくち)、片瀬(かたせ)、南古(なんこ)(南湖(なんご))ノ浦(うら)、不二(ふじ)(富士(ふじ))山(さん)、それに続(つづ)く箱根(はこね)、そして江(え)の島(しま)が見渡(みわた)せます。手前(てまえ)の人物(じんぶつ)は江(え)の島(しま)参詣(さんけい)を終(お)えて、七里ガ浜(しちりがはま)づたいに鎌倉(かまくら)の古寺(ふるでら)を訪(たず)ねる人々(ひとびと)でしょうか。 子(こ)どもの引(ひ)く牛(うし)に乗(の)っていく女性(じょせい)とそのつれの徒歩(とほ)の女性(じょせい)、その反対(はんたい)に江(え)の島(しま)に向(むか)うのか、一息(ひといき)入(い)れるために駕籠(かご)から降(お)りようとしている女性(じょせい)、その傍(はた)で額(ひたい)の汗(あせ)を拭(ぬぐ)ったり草履(ぞうり)を揃(そろ)えている駕籠舁(かごかき) がいます。中央(ちゅうおう)では貝(かい)拾(ひろ)いに興(きょう)じる若(わか)い女性(じょせい)の姿(すがた)もあります。このような足弱(あしよわ)な女性(じょせい)や老人(ろうじん)などが牛(うし)の背(せ)や駕籠(かご)などを利用(りよう)したのは事実(じじつ)のようで、この様(よう)な牛(うし)飼(か)いたちが七里ガ浜(しちりがはま)あたりで旅人(たびびと)を待(ま)ち受(う)けて、鎌倉(かまくら)雪ノ下(ゆきのした)まで牛(うし)に乗(の)せる話(はなし)が、当時(とうじ)の紀行文(きこうぶん)や十返舎一九(じっぺんしゃ<いっく/rt>)の『滑稽江之嶋土産(こっけいえのしまみやげ)』にも出(で)ています。当時(とうじ)の江(え)の島参詣(しまさんけい)の旅風俗(たびふうぞく)がよく描(えが)かれている作品(さくひん)と言(い)えます。
相州(そうしゅう)江(え)のしま詣(もうで)の図(ず)七(しち)里(り)が浜(はま)真景(しんけい)