Fujisawa Net Museum

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制作時期(せいさくじき):弘化年間(こうかねんかん)(1844~48)(ごろ)
板元(はんもと):佐野(さの)()

面右(めんみぎ)から(ひだり)()(えが)いて(つづ)七里ヶ浜(しちりがはま)(えが)かれ、遠景(えんけい)には(みぎ)から大山(おおやま)七面山(しちめんざん)龍ノ口(たつのくち)片瀬(かたせ)南古(なんこ)(南湖(なんご))ノ(うら)不二(ふじ)(富士(ふじ))(さん)、それに(つづ)箱根(はこね)、そして()(しま)見渡(みわた)せます。
手前(てまえ)人物(じんぶつ)()(しま)参詣(さんけい)()えて、七里ヶ浜(しちりがはま)(とお)って鎌倉(かまくら)古寺(こじ)(たず)ねる人々(ひとびと)でしょうか。画面(がめん)(みぎ)より、()どもの()(うし)()女性(じょせい)と、その()れの徒歩(とほ)女性(じょせい)(はい)され、中央(ちゅうおう)には(かい)(ひろ)いに(きょう)じる(わか)女性(じょせい)姿(すがた)画面(がめん)(ひだり)には()(しま)()かう道中(どうちゅう)一息(ひといき)()れるために駕籠(かご)から()りようとしている女性(じょせい)がおり、その(はた)(ひたい)(あせ)(ぬぐ)ったり草履(ぞうり)(そろ)えている駕籠舁(かごかき)(えが)かれます。

画面左上隅(がめんひだりうえみす)(かこ)みに「()(しま)より鎌倉(かまくら)道片瀬(みちかたせ)より稲村(いなむら)(さき)まで海辺四十三町(うみべよんじゅうさんまち)六丁(ろくちょう)壱里(いちり)にとりて、七里ガ浜名(しちりがはまな)づく風景(ふうけい)勝地(しょうち)にして諸国(しょこく)嶋山津々浦々(しまやまつつうらうら)はるか海上(かいじょう)(つら)なり、()()壮観(そうかん)(ほか)(こと)なり」とあって、七里ガ浜(しちりがはま)()由来(ゆらい)四季(しき)(つう)じて風光明媚(ふうこうめいび)様子(ようす)説明(せつめい)しています。画面(がめん)(みぎ)から(ひだり)()(えが)いて(つづ)七里ガ浜(しちりがはま)(えが)かれ、遠景(えんけい)には(みぎ)から大山(おおやま)七面山(しちめんざん)龍ノ口(たつのくち)片瀬(かたせ)南古(なんこ)(南湖(なんご))ノ(うら)不二(ふじ)(富士(ふじ))(さん)、それに(つづ)箱根(はこね)、そして()(しま)見渡(みわた)せます。手前(てまえ)人物(じんぶつ)()(しま)参詣(さんけい)()えて、七里ガ浜(しちりがはま)づたいに鎌倉(かまくら)古寺(ふるでら)(たず)ねる人々(ひとびと)でしょうか。

()どもの()(うし)()っていく女性(じょせい)とそのつれの徒歩(とほ)女性(じょせい)、その反対(はんたい)()(しま)(むか)うのか、一息(ひといき)()れるために駕籠(かご)から()りようとしている女性(じょせい)、その(はた)(ひたい)(あせ)(ぬぐ)ったり草履(ぞうり)(そろ)えている駕籠舁(かごかき) がいます。中央(ちゅうおう)では(かい)(ひろ)いに(きょう)じる(わか)女性(じょせい)姿(すがた)もあります。このような足弱(あしよわ)女性(じょせい)老人(ろうじん)などが(うし)()駕籠(かご)などを利用(りよう)したのは事実(じじつ)のようで、この(よう)(うし)()いたちが七里ガ浜(しちりがはま)あたりで旅人(たびびと)()()けて、鎌倉(かまくら)雪ノ下(ゆきのした)まで(うし)()せる(はなし)が、当時(とうじ)紀行文(きこうぶん)十返舎一九(じっぺんしゃ<いっく/rt>)の『滑稽江之嶋土産(こっけいえのしまみやげ)』にも()ています。当時(とうじ)()島参詣(しまさんけい)旅風俗(たびふうぞく)がよく(えが)かれている作品(さくひん)()えます。

歌川広重 相州江のしま詣の図七里が浜真景

相州(そうしゅう)()のしま(もうで)()(しち)()(はま)真景(しんけい)

このシリーズは、その半分(はんぶん)絵柄(えがら)()(しま)への道程(どうてい)をモチーフとしており、(たび)する人々(ひとびと)(この作品(さくひん)では狂歌師(きょうかし))の気持(きも)ちの(たか)まりが名所(めいしょ)名物(めいぶつ)(たく)されて画面(がめん)(えが)かれています。本作品(ほんさくひん)では川崎(かわさき)六郷(ろくごう)(わた)しで(あめ)()られた旅人(たびびと)たちが、()()()っている様子(ようす)(えが)かれます。突然(とつぜん)()()したような(あめ)(せん)には、銀泥(ぎんでい)(ぎん)(ふく)ませた()())が(もち)いられ、その情景(じょうけい)効果的(こうかてき)演出(えんしゅつ)しています。

江島記行(えのしまきこう)()(しま)(かん)する風物(ふうぶつ)(えが)いた、(そろい)(もの)摺物(すりもの)です。摺物(すりもの)とは、狂歌(きょうか)狂歌(きょうか)諧謔的(かいぎゃくてき)な31文字(もじ)(つく)られる())と(うた)(かん)する挿絵(さしえ)(えが)かれた版画作品(はんがさくひん)です。

狂歌(きょうか)()(たち)によって(つく)られた私家版(しかばん)印刷物(いんさつぶつ)のため、採算(さいさん)()ることが前提(ぜんてい)()(もの)浮世絵(うきよえ)とは(こと)なり、(ちい)さい画面(がめん)(うち)にも繊細(せんさい)()りや()(とう)(たか)技術(ぎじゅつ)がふんだんに(もち)いられていることが特徴(とくちょう)です。

本作(ほんさく)画中(がちゅう)に16(まい)(つづ)きの記載(きさい) がありますが、現在(げんざい)発見(はっけん)されているものは14(てん)で、「高輪(たかなわ)ふり()し」「鮫州(さめず)」「大森(おおもり)」「蒲田(かまた)」「六郷(ろくごう)」「鶴見(つるみ)」「神奈川(かながわ)」「浜川(はまかわ)」「下宮(しものみや)」「上宮(かみのみや)」「本宮(ほんぐう)」「兒ヶ淵(ちごがぶち)(稚児ヶ淵(ちごがぶち))」「俎岩(まないたいわ)」「竜洞(りゅうどう)」で、狂歌連(きょうかれん)狂歌(きょうか)のグループ)が()(しま)旅行(りょこう)()った(さい)に、記念(きねん)として制作(せいさく)されたものと(かんが)えられています。

挿絵(さしえ)担当(たんとう)した魚屋北渓(ととやほっけい)北斎(ほくさい)門人(もんじん)一人(ひとり)で、摺物(すりもの)では北斎(ほくさい)をしのぐ技巧(ぎこう)をもつと評価(ひょうか)されるほど、狂歌(きょうか)関連(かんれん)作品(さくひん)得意(とくい)とした絵師(えし)です。

(えの)島記(しまき)(こう) 六郷(ろくごう)

(とうげ)茶屋(ちゃや)(Teahouse)での一場面(いちばめん)(えが)いた作品(さくひん)です。茶屋(ちゃや)(むすめ)(わす)(もの)(わた)していて、旅人(たびびと)男性(だんせい)はユーモラスな表情(ひょうじょう)となっています。(わた)されている帳面(ちょうめん)をみると、「松露通(しょうろかよい)」と()かれていることから、この男性(だんせい)たちが藤沢宿(ふじさわしゅく)湘南(しょうなん)地域(ちいき)名物(めいぶつ)であった松露(しょうろ)(きのこに()(まる)(ちい)さな(かたち)菌類(きんるい))の()()(にん)であることがわかります。

江島記行(えのしまきこう)()(しま)(かん)する風物(ふうぶつ)(えが)いた、(そろい)(もの)摺物(すりもの)です。摺物(すりもの)とは、狂歌(きょうか)狂歌(きょうか)諧謔的(かいぎゃくてき)な31文字(もじ)(つく)られる())と(うた)(かん)する挿絵(さしえ)(えが)かれた版画作品(はんがさくひん)です。

狂歌(きょうか)()(たち)によって(つく)られた私家版(しかばん)印刷物(いんさつぶつ)のため、採算(さいさん)()ることが前提(ぜんてい)()(もの)浮世絵(うきよえ)とは(こと)なり、(ちい)さい画面(がめん)(うち)にも繊細(せんさい)()りや()(とう)(たか)技術(ぎじゅつ)がふんだんに(もち)いられていることが特徴(とくちょう)です。

本作(ほんさく)画中(がちゅう)に16(まい)(つづ)きの記載(きさい) がありますが、現在(げんざい)発見(はっけん)されているものは14(てん)で、「高輪(たかなわ)ふり()し」「鮫州(さめず)」「大森(おおもり)」「蒲田(かまた)」「六郷(ろくごう)」「鶴見(つるみ)」「神奈川(かながわ)」「浜川(はまかわ)」「下宮(しものみや)」「上宮(かみのみや)」「本宮(ほんぐう)」「兒ヶ淵(ちごがぶち)(稚児ヶ淵(ちごがぶち))」「俎岩(まないたいわ)」「竜洞(りゅうどう)」で、狂歌連(きょうかれん)狂歌(きょうか)のグループ)が()(しま)旅行(りょこう)()った(さい)に、記念(きねん)として制作(せいさく)されたものと(かんが)えられています。

挿絵(さしえ)担当(たんとう)した魚屋北渓(ととやほっけい)北斎(ほくさい)門人(もんじん)一人(ひとり)で、摺物(すりもの)では北斎(ほくさい)をしのぐ技巧(ぎこう)をもつと評価(ひょうか)されるほど、狂歌(きょうか)関連(かんれん)作品(さくひん)得意(とくい)とした絵師(えし)です。

(えの)島記(しまき)(こう) 藤沢(ふじさわ)

朱色(しゅいろ)題名(だいめい)上部(じょうぶ)にある(まんじ)は、狂歌連(きょうかれん)狂歌師(きょうかし)のグループ)を(しめ)(しるし)(emblem)で、(ほん)シリーズ(すべ)ての作品(さくひん)(はい)っています。また本作(ほんさく)(えが)かれた()ぬぐいには、(まんじ)()()かれています。画中(がちゅう)狂歌(きょうか)には、鶴見(つるみ)名物(めいぶつ)であった「米饅頭(こめまんじゅう)」のことがよまれています。手前(てまえ)遠眼鏡(とおめがね)望遠鏡(ぼうえんきょう))には分銅繋(ふんどうつな)ぎの紋様(もんよう)(はかり)(おも)りを()した文様(もんよう))が(ほどこ)されており、金泥(きんでい)(きん)(ふく)ませた()())によって表現(ひょうげん)されています。

江島記行(えのしまきこう)()(しま)(かん)する風物(ふうぶつ)(えが)いた、(そろい)(もの)摺物(すりもの)です。摺物(すりもの)とは、狂歌(きょうか)狂歌(きょうか)諧謔的(かいぎゃくてき)な31文字(もじ)(つく)られる())と(うた)(かん)する挿絵(さしえ)(えが)かれた版画作品(はんがさくひん)です。

狂歌(きょうか)()(たち)によって(つく)られた私家版(しかばん)印刷物(いんさつぶつ)のため、採算(さいさん)()ることが前提(ぜんてい)()(もの)浮世絵(うきよえ)とは(こと)なり、(ちい)さい画面(がめん)(うち)にも繊細(せんさい)()りや()(とう)(たか)技術(ぎじゅつ)がふんだんに(もち)いられていることが特徴(とくちょう)です。

本作(ほんさく)画中(がちゅう)に16(まい)(つづ)きの記載(きさい) がありますが、現在(げんざい)発見(はっけん)されているものは14(てん)で、「高輪(たかなわ)ふり()し」「鮫州(さめず)」「大森(おおもり)」「蒲田(かまた)」「六郷(ろくごう)」「鶴見(つるみ)」「神奈川(かながわ)」「浜川(はまかわ)」「下宮(しものみや)」「上宮(かみのみや)」「本宮(ほんぐう)」「兒ヶ淵(ちごがぶち)(稚児ヶ淵(ちごがぶち))」「俎岩(まないたいわ)」「竜洞(りゅうどう)」で、狂歌連(きょうかれん)狂歌(きょうか)のグループ)が()(しま)旅行(りょこう)()った(さい)に、記念(きねん)として制作(せいさく)されたものと(かんが)えられています。

挿絵(さしえ)担当(たんとう)した魚屋北渓(ととやほっけい)北斎(ほくさい)門人(もんじん)一人(ひとり)で、摺物(すりもの)では北斎(ほくさい)をしのぐ技巧(ぎこう)をもつと評価(ひょうか)されるほど、狂歌(きょうか)関連(かんれん)作品(さくひん)得意(とくい)とした絵師(えし)です。

(えの)島記(しまき)(こう) 鶴見(つるみ)

(たこ)(たい)河豚(ふぐ)(かれい)、といった(うみ)(さち)(えが)かれており、よく()ると(ちい)さな(かに)登場(とうじょう)しています。神奈川宿(かながわしゅく)旅籠(はたご)料理(りょうり)()すホテル)では、新鮮(しんせん)(さかな)()べられると評判(ひょうばん)でした。(さかな)(ぼん)には朱色(しゅいろ)で「はねさわ」と()かれており、これは当時(とうじ)神奈川宿(かながわしゅく)代表(だいひょう)する旅籠(はたご)屋号(やごう)です。

江島記行(えのしまきこう)()(しま)(かん)する風物(ふうぶつ)(えが)いた、(そろい)(もの)摺物(すりもの)です。摺物(すりもの)とは、狂歌(きょうか)狂歌(きょうか)諧謔的(かいぎゃくてき)な31文字(もじ)(つく)られる())と(うた)(かん)する挿絵(さしえ)(えが)かれた版画作品(はんがさくひん)です。

狂歌(きょうか)()(たち)によって(つく)られた私家版(しかばん)印刷物(いんさつぶつ)のため、採算(さいさん)()ることが前提(ぜんてい)()(もの)浮世絵(うきよえ)とは(こと)なり、(ちい)さい画面(がめん)(うち)にも繊細(せんさい)()りや()(とう)(たか)技術(ぎじゅつ)がふんだんに(もち)いられていることが特徴(とくちょう)です。

本作(ほんさく)画中(がちゅう)に16(まい)(つづ)きの記載(きさい) がありますが、現在(げんざい)発見(はっけん)されているものは14(てん)で、「高輪(たかなわ)ふり()し」「鮫州(さめず)」「大森(おおもり)」「蒲田(かまた)」「六郷(ろくごう)」「鶴見(つるみ)」「神奈川(かながわ)」「浜川(はまかわ)」「下宮(しものみや)」「上宮(かみのみや)」「本宮(ほんぐう)」「兒ヶ淵(ちごがぶち)(稚児ヶ淵(ちごがぶち))」「俎岩(まないたいわ)」「竜洞(りゅうどう)」で、狂歌連(きょうかれん)狂歌(きょうか)のグループ)が()(しま)旅行(りょこう)()った(さい)に、記念(きねん)として制作(せいさく)されたものと(かんが)えられています。

挿絵(さしえ)担当(たんとう)した魚屋北渓(ととやほっけい)北斎(ほくさい)門人(もんじん)一人(ひとり)で、摺物(すりもの)では北斎(ほくさい)をしのぐ技巧(ぎこう)をもつと評価(ひょうか)されるほど、狂歌(きょうか)関連(かんれん)作品(さくひん)得意(とくい)とした絵師(えし)です。

()島記(しまき)(こう) 神奈川(かながわ)

()(しま)紀行(きこう)目的地(もくてきち)到着(とうちゃく)し、()(しま)名所(めいしょ)岩屋(いわや)」(江の島(えのしま)洞窟(どうくつ))の(まえ)宴会(えんかい)(もよお)されています。この様子(ようす)(えが)いた()(しま)浮世絵(うきよえ)(おお)見受(みう)けられることから、実際(じっさい)江の島(えのしま)では(おお)くの(うたげ)がおこなわれていたようです。遠景(えんけい)富士(ふじ)(なみ)しぶきには銀泥(ぎんでい)がほどこされています。

江島記行(えのしまきこう)江の島(えのしま)(かん)する風物(ふうぶつ)(えが)いた、(そろい)(もの)摺物(すりもの)です。摺物(すりもの)とは、狂歌(きょうか)狂歌(きょうか)諧謔的(かいぎゃくてき)な31文字(もじ)(つく)られる())と(うた)(かん)する挿絵(さしえ)(えが)かれた版画作品(はんがさくひん)です。

狂歌(きょうか)()(たち)によって(つく)られた私家版(しかばん)印刷物(いんさつぶつ)のため、採算(さいさん)()ることが前提(ぜんてい)()(もの)浮世絵(うきよえ)とは(こと)なり、(ちい)さい画面(がめん)(うち)にも繊細(せんさい)()りや()(とう)(たか)技術(ぎじゅつ)がふんだんに(もち)いられていることが特徴(とくちょう)です。

本作(ほんさく)画中(がちゅう)に16(まい)(つづ)きの記載(きさい) がありますが、現在(げんざい)発見(はっけん)されているものは14(てん)で、「高輪(たかなわ)ふり()し」「鮫州(さめず)」「大森(おおもり)」「蒲田(かまた)」「六郷(ろくごう)」「鶴見(つるみ)」「神奈川(かながわ)」「浜川(はまかわ)」「下宮(しものみや)」「上宮(かみのみや)」「本宮(ほんぐう)」「兒ヶ淵(ちごがぶち)(稚児ヶ淵(ちごがぶち))」「俎岩(まないたいわ)」「竜洞(りゅうどう)」で、狂歌連(きょうかれん)狂歌(きょうか)のグループ)が()(しま)旅行(りょこう)()った(さい)に、記念(きねん)として制作(せいさく)されたものと(かんが)えられています。

挿絵(さしえ)担当(たんとう)した魚屋北渓(ととやほっけい)北斎(ほくさい)門人(もんじん)一人(ひとり)で、摺物(すりもの)では北斎(ほくさい)をしのぐ技巧(ぎこう)をもつと評価(ひょうか)されるほど、狂歌(きょうか)関連(かんれん)作品(さくひん)得意(とくい)とした絵師(えし)です。

()島記(しまき)(こう) (りゅう)(どう)

制作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2(ねん)(1855)2(がつ)
板元(はんもと)(しるし)なし

これは団扇絵(うちわえ)で、満潮(まんちょう)()()(しま)正面(しょうめん)から()()です。参道(さんどう)(うみ)(ぼっ)して()えませんが、片瀬(かたせ)(はま)()()げられた(ふね)が3(せき)と、参詣(さんけい)(じん)(はこ)んでいるのか(しま)(むこ)うにも2(せき)(ふね)()えます。弘化(こうか)4(ねん)(1847(ねん))(すえ)の『江ノ島(えのしま)参詣(さんけい)()()書写(しょしゃ)』に「片瀬(かたせ)渡場(わたりば)百姓渡舟賃払(ひゃくしょうわたりぶねちんはらい)方舟(はこぶね)弐艘(にそう)つなき(おき)」と記録(きろく)され百姓(ひゃくしょう)(わたし)(ふね)(ぜに)をとって、参詣(さんけい)(じん)(はこ)んだことが(しる)されています。
画面(がめん)画題(がだい)落款(らっかん)(かこ)いが(あか)()られているだけで、あとは(あい)濃淡(のうたん)だけで()られています。いわゆる藍摺(あいずり)江戸(えど)末期(まっき)(おこな)われた(あい)一色(いっしょく)、または(あい)(しゅ)としてその濃淡(のうたん)色調(しきちょう)をととのえて()(いろ)極度(きょくど)制限(せいげん)し、少量(しょうりょう)(べに)などをきき(しょく)として(もち)いた錦絵(にしきえ)のことです。藍摺(あいずり)発生(はっせい)天保(てんぽう)13(ねん)(1842(ねん))の奢侈禁止令(しゃしきんしれい)との関係(かんけい)説明(せつめい)されますが、実際(じっさい)には文政(ぶんせい)12(ねん)(1829(ねん))(ころ)輸入(ゆにゅう)された(とう)(あい)(らん)(めい)ベロリンという(いろどり)やかな藍色(あいいろ)を、当時(とうじ)狂歌(きょうか)()たちがすでに摺物(すりもの)などに(もち)いていて、それ以来(いらい)ペロリン(あい)錦絵(にしきえ)にも使用(しよう)されたことが、青葱堂(せいそうどう)冬圃(とうほ)随筆(ずいひつ)真佐(まさ)(よし)のかつら』に(しる)されています。

歌川広重 相州江之嶋金亀山

相州(そうしゅう)(こう)()(しま)金亀(きんき)(ざん)

制作(せいさく)時期(じき):安政(やすまさ)元年(がんねん)(1854)2月(にがつ)
板元(はんもと):(つた)(きち)

これは「鎌倉(かまくら)七里(しちり)(はま)風景(ふうけい)」と(つい)で、(つた)(きち)から出版(しゅっぱん)されたもので(ちゅう)短冊(たんざく)です。
広重(ひろしげ)相州(そうしゅう)一番(いちばん)名所(めいしょ)である()(しま)度々(たびたび)(おとず)れて、(おお)くの作品(さくひん)(のこ)しています。広重(ひろしげ)は「()(そう)(たび)絵日記(えにっき)」のスケッチ旅行(りょこう)(さい)()(しま)岩本楼(いわもとろう)投宿(とうしゅく)し、(どう)絵日記(えにっき)(だい)(さん)(じゅう)()(けい)に「同所(どうしょ)岩本楼(いわもとろう)(うえ)」、(さん)(じゅう)三景(さんけい)に「おとなしく酒宴(しゅえん)」と、岩本楼(いわもとろう)での投宿(とうしゅく)様子(ようす)(つた)える2(かい)(のこ)しています。
これは広重(ひろしげ)()(しま)(おとず)れるごとに、(この)んで()まった岩本楼(いわもとろう)の「富士見(ふじみ)()」から(えが)いた、富士(ふじ)(けい)(おも)われる(いち)()です。

歌川広重 相州江之島眺望

相州(そうしゅう)江之島(えのしま)眺望(ちょうぼう)



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