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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):伊場仙(いばせん)(伊場(いば)屋(や)仙三郎(せんざぶろう)) 画面(がめん)手前(てまえ)にみえる欄干(らんかん)は日本橋(にほんばし)の欄干(らんかん)です。画面(がめん)背景(はいけい)の右(みぎ)奥(おく)には江戸城(えどじょう)、さらに左(ひだり)奥(おく)には富士山(ふじさん)が見(み)え、東海道(とうかいどう)の起点(きてん)であった日本橋(にほんばし)を表(あらわ)す定番(ていばん)の構図(こうず)となっています。 このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(にん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 日本橋(にほんばし)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):伊勢屋市兵衛(いせやいちべえ) このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(さんにん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。 風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。 藤沢(ふじさわ)は国芳(くによし)の手(て)による小栗判官(おぐりはんがん)照手(てるて)姫(ひめ)で、いったん地獄(じごく)へ堕(お)ちた小栗(おぐり)が熊野(くまの)で本復(ほんぷく)した様子(ようす)を描(えが)いています。 岩(いわ)を持(も)ち上(あ)げているのが小栗(おぐり)で、しゃがんで驚(おどろ)いた様子(ようす)をしている女性(じょせい)が照手(てるて)姫(ひめ)。小栗(おぐり)の後方(こうほう)の滝(たき)は那智(なち)の滝(たき)で、向(む)かって左(ひだり)に見(み)える車(くるま)と綱(つな)が土車(つちぐるま)に乗(の)せられて東海道(とうかいどう)を上(のぼ)ったという物語(ものがたり)を暗示(あんじ)しています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 藤沢(ふじさわ)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)4年(ねん)頃(ごろ)(1833)。 板元(はんもと):蔦(つた)吉(きち)(蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)) このシリーズは美人(びじん)を主体(しゅたい)とした東海道(とうかいどう)シリーズのため、一般(いっぱん)に「美人(びじん)東海道(とうかいどう)」と呼(よ)ばれています。 各(かく)図(ず)共(ども)、前景(ぜんけい)に女性(じょせい)の艶姿(あですがた)を大(おお)きく描(えが)き、上部(じょうぶ)背景(はいけい)には源氏(げんじ)雲(くも)で仕切(しき)って、五十三次(ごじゅうさんつぎ)各(かく)宿(やど)の風景(ふうけい)を配(はい)しており、図(ず)左側(ひだりがわ)の鳥居(とりい)が藤沢宿(ふじさわしゅく)にあった江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)です。 旅(たび)姿(すがた)の女性(じょせい)像(ぞう)の右側(みぎがわ)には、宮戸(みやと)連(れん)(俳句(はいく)の結社(けっしゃ))其生の「此(この)しゆく(宿(やど))に ゆかりの色(いろ)や杜若(かきつばた)」という句(く)が添(そ)えられています。
藤沢宿(ふじさわしゅく) 七(なな)
製作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)8年(ねん)頃(ごろ)(1811)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 北斎(ほくさい)は広重(ひろしげ)より30年(ねん)くらい前(まえ)に数種類(すうしゅるい)の東海道(とうかいどう)の揃(そろ)い物(ぶつ)を描(えが)いていますが、実(じつ)は文化(ぶんか)9年(ねん)まで東海道(とうかいどう)を旅(たび)した記録(きろく)はありません。 おそらく名所図会(めいしょずえ)等(など)を基(もと)にして作画(さくが)したものと思(おも)われます。 そのためか景観(けいかん)描写(びょうしゃ)に主眼(しゅがん)を置(お)いた初代(しょだい)広重(ひろしげ)の作品(さくひん)に対(たい)し、旅(たび)や宿場(しゅくば)の風俗(ふうぞく)を描(えが)いた作品(さくひん)が多(おお)く、この作品(さくひん)でも描(えが)かれているのは街道(かいどう)を行(い)く荷役(にやく)とそれに付(つ)きそう宰領(さいりょう)(監督(かんとく)者(しゃ))の姿(すがた)です。 荷役(にやく)の二人(ふたり)のかけ声(ごえ)が聞(き)こえてきそうな動(うご)きのある作品(さくひん)です。
藤沢(ふじさわ)
有山定次郎(ありやまていじろう)は明治期(めいじき)に活躍(かつやく)した石版画(せきはんが)の絵師(えし)兼(けん)画工(がこう)で、多(おお)くの石版(せきはん)作品(さくひん)を残(のこ)しました。本作(ほんさく)は、江(え)の島(しま)を背景(はいけい)に女性(じょせい)を配(はい)したもので、観光客(かんこうきゃく)への土産物(みやげもの)として作成(さくせい)されたものと思(おも)われます。 石版画(せきはんが)は描(えが)く際(さい)の筆圧(ふであつ)や、微妙(びみょう)な筆(ふで)使(づか)いなどが写(うつ)し取(と)れる版画(はんが)技法(ぎほう)であり、背景(はいけい)のぼかしにその技法(ぎほう)の特徴(とくちょう)が表(あらわ)れています。石版画(せきはんが)は、濃淡(のうたん)による遠近感(えんきんかん)の表現(ひょうげん)により水墨画(すいぼくが)の墨(すみ)と近(ちか)い考(かんが)え方(かた)となり、明治期(めいじき)に入(はい)ってきた新技法(しんぎほう)でありながら、すぐに絵師(えし)たちの感性(かんせい)に結(むす)びつくことができた技法(ぎほう)でもありました。
美人(びじん)鏡(かがみ) 江乃(えの)島(しま)
制作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ)25年(ねん)(1892)7月(がつ)1日(にち)出版(しゅっぱん)。 画(が)作(さく)兼(けん)発行人(はっこうにん):矢島(やじま)知三郎(ともさぶろう) 画題(がだい)「弁天娘(べんてんむすめ)」とあるとおり、遠景(えんけい)の富士(ふじ)と江(え)の島(しま)を左(ひだり)肩越(かたごし)に見(み)せて窓辺(まどべ)に座(すわ)る芸(げい)伎を弁財天(べざいてん)に見立(みた)てた作品(さくひん)です。 髪(かみ)を島田(しまだ)に結(ゆ)い扇子(せんす)を広(ひろ)げて後(ご)を見返(みかえ)る年若(としわか)い娘(むすめ)の肩(かた)には肩(かた)あげがあります。場所(ばしょ)は片瀬(かたせ)東浜(ひがしはま)あたりの茶屋(ちゃや)の二階(にかい)から見(み)た風景(ふうけい)と思(おも)われます。 この石版(せきはん)画(が)は墨(すみ)一色(いっしょく)で刷(す)り、後(ご)から手(て)彩色(さいしき)した作品(さくひん)で、明治(めいじ)15年(ねん)から25年(ねん)(1882-1892年(ねん))頃(ころ)にかけて流行(りゅうこう)した額絵(がくえ)の一種(いっしゅ)と思(おも)われます。額絵(がくえ)は平均(へいきん)的(てき)に44.7×37.0cmの西洋(せいよう)紙(し)を使(つか)い、35.0×27.0cm程度(ていど)の画面(がめん)に貴顕(きけん)や美人(びじん)、風景(ふうけい)、風俗(ふうぞく)、歴史(れきし)、小児(しょうに)等(など)を画題(がだい)として墨(すみ)一色(いっしょく)で印刷(いんさつ)し、後(あと)で手(て)彩色(さいしき)したもので、一部(いちぶ)色刷(いろず)りするものもあったと言(い)われます。
弁天娘(べんてんむすめ)
白浪五人男(しらなみごにんおとこ)の着(き)ている着物(きもの)の柄(がら)は、それぞれの人物(じんぶつ)が表(あらわ)されており、忠信利平(ただのぶりへい)は神出鬼没(しんしゅつきぼつ)を表(あらわ)す龍(りゅう)、赤星(あかぼし)十三(じゅうざ)(十三郎(じゅうさろう))は明(あ)けの明星(みょうじょう)、南郷力丸(なんごうりきまる)は荒(あら)くれ者(もの)の象徴(しょうちょう)である稲妻(いなづま)と雷獣(らいじゅう)という架空獣(かくうじゅう)、日本駄右衛門(にっぽんだえもん)は小鳥(ことり)を今(いま)にも捕(と)らえんとする猛禽(もうきん)、弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)は腕(うで)の彫物(ほりもの)に大(おお)きく菊(きく)の花(はな)が描(えが)かれ、着物(きもの)の柄(え)は雷紋(かみなりもん)が施(ほどこ)されています。この弁天小僧(べんてんこぞう)の雷紋(かみなりもん)は演(えん)じる十三代目(じゅうさんだいめ)市村羽左衛門(いちむらうざえもん)にゆかりある渦巻(うずまき)にアレンジされています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』より白浪(しらなみ)五(ご)人(にん)男(おとこ))
板元(はんもと)印(しるし)なし 落款(らっかん)、板元(はんもと)印(しるし)ともになく作者不詳(さくしゃふしょう)となっています。極印(ごくいん)が半分(はんぶん)に切(き)られているので、元(もと)の大(おお)きさは現在(げんざい)のものより少(すこ)し大(おお)きかったと考(かんが)えられます。弁才天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)を描(えが)いた作品(さくひん)は多(おお)くありますが、表題(ひょうだい)に開帳(かいちょう)の場所(ばしょ)や年(とし)を明記(めいき)している点(てん)が珍(めずら)しい作品(さくひん)です。 また、江(え)の島(しま)では海士(あま)と呼(よ)ばれる男性(だんせい)が鮑(あわび)取(と)りをしていました。多(おお)くの作品(さくひん)で鮑(あわび)取(と)りをしているのは女性(じょせい)として描(えが)かれていますが、この作品(さくひん)では男性(だんせい)の姿(すがた)で描(えが)かれている点(てん)も注目(ちゅうもく)されます。
相州(そうしゅう)江(え)ノ嶋(しま)弁才天(べんざいてん)上下(じょうげ)ノ宮(みや)己巳(つちのとみ)年(どし)御(ご)開帳(かいちょう)繁栄(はんえい)之(の)全(ぜん)図(ず)