ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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板元(はんもと):佐野(さの)喜(き) 江(え)の島(しま)や右手(みぎて)に見(み)える岩肌(いわはだ)に、奇妙(きみょう)な立体(りったい)表現(ひょうげん)がなされている点(てん)が特徴(とくちょう)的(てき)な作品(さくひん)です。前景(ぜんけい)の波(なみ)の大(おお)きさには極端(きょくたん)な誇張(こちょう)が見(み)られ、これらには西洋絵画(せいようかいが)からの影響(えいきょう)が指摘(してき)されています。 作者(さくしゃ)の二代(にだい)勝川春好(かつかわしゅんこう)は当初(とうしょ)「春扇(しゅんおう)」を名乗(なの)った絵師(えし)でしたが、このような立体(りったい)感(かん)のある風景(ふうけい)作品(さくひん)は春好(しゅんこう)への改名(かいめい)時(じ)に多(おお)く見(み)られます。
江(え)のしま
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)初期(しょき)。 板元(はんもと):川口(かわぐち) 波(なみ)の部分(ぶぶん)に空摺(からず)りを用(もち)いたり、浮世絵(うきよえ)の様々(さまざま)な技法(ぎほう)を取(と)り入(い)れた水準(すいじゅん)の高(たか)い作品(さくひん)です。旅(たび)の女性(じょせい)から銭(ぜに)をねだろうとする地元(じもと)の子(こ)どもの表情(ひょうじょう)しぐさが生(い)き生(い)きと描(えが)かれ、女性(じょせい)の鞋(わらじ)を直(なお)している従者(じゅうしゃ)など、風俗(ふうぞく)的(てき)な面(めん)からも興味深(きょうみぶか)い作品(さくひん)です。 富士(ふじ)が江(え)の島(しま)の左手(ひだりて)に描(えが)かれているのも特徴(とくちょう)です。また彼(かれ)は現在(げんざい)確認(かくにん)されているだけで15点(てん)もの江(え)の島(しま)関係(かんけい)の浮世絵(うきよえ)を描(えが)いているので、他(た)の絵師(えし)と比較(ひかく)して江(え)の島(しま)神社(じんじゃ)と何(なん)らかの関係(かんけい)があったのではないかと思(おも)われます。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島道(しまどう)中(ちゅう))
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)年間(ねんかん)(1818~30) 道中(どうちゅう)を楽(たの)しむ女性(じょせい)と従者(じゅうしゃ)の一行(いっこう)を江(え)の島(しま)をバックにして遠近(えんきん)感(かん)を出(だ)しています。板元(はんもと)印(しるし)はないのですが、川口(かわぐち)版(ばん)の作品(さくひん)と同一(どういつ)形式(けいしき)なのでそれと考(かんが)えられます。
江(え)の島(しま)を背景(はいけい)に、女性(じょせい)二人(ふたり)が荷(に)担(かつ)ぎと共(とも)に浜辺(はまべ)を鎌倉(かまくら)方面(ほうめん)へ向(む)かって歩(ある)く様子(ようす)が描(えが)かれています。これは上部(じょうぶ)に狂歌(きょうか)の書(か)かれた摺物(すりもの)(私家(しか)版(ばん)として作(つく)られた配(くば)り物(もの))の作品(さくひん)であり、波(なみ)際(ぎわ)など摺(す)りや色合(いろあ)いが繊細(せんさい)な表現(ひょうげん)となっているところが特徴(とくちょう)です。 作者(さくしゃ)の秀麿(ひでまろ)は初代(しょだい)歌麿(うたまろ)の弟子(でし)で、美人画(びじんが)を多(おお)く残(のこ)しました。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島道(しまどう)中(ちゅう)風景(ふうけい))
泉(いずみ)忠衡(ただひら)とは、源義経(みなもとのよしつね)が拠(よ)り所(どころ)とした奥州(おうしゅう)藤原氏(ふじわらし)第(だい)3代(だい)秀衡(ひでひら)の三男(さんなん)で、第(だい)4代(だい)泰衡(やすひら)の異母兄弟(いぼきょうだい)の弟(おとうと)。父(ちち)の遺言(ゆいごん)によって義経(よしつね)を守(まも)ろうとして、義経(よしつね)を自害(じがい)に追(お)い込(こ)んだ泰衡(やすひら)に殺(ころ)されました。 平泉(ひらいずみ)の泉屋(いずみや)に館(やかた)を構(かま)えていたので、泉三郎(せんざぶろう)と呼(よ)ばれます。
本朝(ほんちょう)名将(めいしょう)鏡(かがみ) 泉三郎(いずみさぶろう)忠衡(ただひら)
安政(あんせい)5年(ねん)(1858)に開港(かいこう)した横浜(よこはま)の様子(ようす)を描(えが)いた絵図(えず)です。港(みなと)には欧米(おうべい)各国(かっこく)の帆船(はんせん)が描(えが)かれ、中央(ちゅうおう)下部(かぶ)の「御台(おだい)場(ば)」(砲台(ほうだい))の向(む)かいの「ハトバ(wharf)」は、現在(げんざい)の通称(つうしょう)「象(ぞう)の鼻(はな)」です。 芳(よし)員(いん)は幕末期(ばくまつき)に流行(はや)った「横浜絵(よこはまえ)」(開港(かいこう)地(ち)横浜(よこはま)の景観(けいかん)や風俗(ふうぞく)を描(えが)いた錦絵(にしきえ))の代表(だいひょう)的(てき)な絵師(えし)の一人(ひとり)で、こうした鳥瞰(ちょうかん)的(てき)な作品(さくひん)も描(えが)いています。
横浜(よこはま)明細(めいさい)全(ぜん)図(ず)
納札(のうさつ)文化(ぶんか)研究会(けんきゅうかい)が昭和(しょうわ)34年(ねん)度(ど)の会合(かいごう)のまとめとして発行(はっこう)した納札(のうさつ)(巡礼(じゅんれい)者(しゃ)が霊場(れいじょう)に参拝(さんぱい)したしるし)集(しゅう)兼(けん)浮世絵(うきよえ)集(しゅう)。 浮世絵(うきよえ)は歌川芳員(うたがわよしかず)の「東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)」(おもしろ東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ))を、版(はん)を新(あら)たにして編集(へんしゅう)しています。隔月(かくげつ)の会合(かいごう)の内(うち)には、2回(かい)にわたって「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)膝栗毛(ひざくりげ)」を扱(あつか)っている回(かい)があり、軽妙(けいみょう)な画風(がふう)が好(この)まれて復刻(ふっこく)されたものでしょうか。 保存会(ほぞんかい)には江戸(えど)演芸(えんげい)関係者(かんけいしゃ)も多(おお)くいたようで、納札(のうさつ)(を収(おさ)めたメンバー)には、江戸文字(えどもじ)(江戸時代(えどじだい)に盛(さか)んに使用(しよう)された図案(ずあん)文字(もじ)の総称(そうしょう)。それぞれの書体(しょたい)は別々(べつべつ)の名称(めいしょう)を持(も)ち、もともとは使用(しよう)される用途(ようと)も違(ちが)っていた)の橘(たちばな)右近(うこん)、寄席(よせ)の新宿末廣亭(しんじゅくすえひろてい)、講談(こうだん)の一(いち)竜(りゅう)斎(さい)貞丈(ていじょう)、落語(らくご)の三遊亭圓馬(さんゆうていえんば)、三遊亭百生(さんゆうていひゃくしょう)、柳家小(やなぎやこ)さん、奇術(きじゅつ)のアダチ龍光(りゅうこう)、柳亭痴楽(りゅうていちらく)、漫才(まんざい)の都家(みやこや)かつ江(え)、桂枝太郎(かつらえだたろう)などの名前(なまえ)が見(み)られます。
納札(のうさつ)文化(ぶんか)保存会(ほぞんかい)「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)膝栗毛(ひざくりげ)」
女性(じょせい)や子供(こども)が持(も)っている箱(はこ)は大森(おおもり)の名産(めいさん)である麦(むぎ)わら細工(ざいく)です。大森(おおもり)とは品川宿(しながわしゅく)と川崎宿(かわさきしゅく)の間(あいだ)にあった間(あい)の宿(しゅく)でした。この麦(むぎ)わら細工(ざいく)は川崎大師(かわさきだいし)でも名産(めいさん)品(ひん)として売(う)られています。 名所(めいしょ)として描(えが)かれているのは六郷(ろくごう)の渡(わた)しです。慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600)に橋(はし)が架(か)けられてから、何度(なんど)も修復(しゅうふく)とかけ直(なお)しを繰(く)り返(かえ)し、貞享(じょうきょう)5年(ねん)(1688)に流(なが)されてからは明治時代(めいじじだい)になるまでこちらの図(ず)のように舟(ふね)渡(わた)しとなっていました。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 川崎(かわさき)