Fujisawa Net Museum

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制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4(ねん)嘉永(かえい)5(ねん)(1844~1853)(ころ)
板元(はんもと):住政(すみまさ)

これは「相州(そうしゅう)()()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)参詣(さんけい)群衆(ぐんしゅう)()()」と同時(どうじ)江戸(えど)四谷(よつや)傳馬(でんま)(まち)二丁目(にちょうめ)住吉屋(すみよしや)から刊行(かんこう)された作品(さくひん)で、()(しま)弁財天(べんざいてん)参詣(さんけい)するために参道(さんどう)(れつ)をつくった(おんな)講中(こうじゅう)音曲(おんぎょく)連中(れんちゅう)のその()(ばん)とも()えるものです。
画面(がめん)(ひだり)岩場(いわば)参道(さんどう)(かく)木瓜(もっこう)日傘(ひがさ)常磐津(ときわづ)(ぶし)中央(ちゅうおう)三本(さんぼん)(きね)江戸(えど)長唄(ながうた)杵屋(きねや)(ひし)()(かしわ)清元(きよもと)(ぶし)桜草(さくらそう)宮本(みやもと)(ぶし)(みぎ)(たいら)俎板(まないた)(いわ)(うえ)緋毛氈(ひもうせん)(ひろ)酒肴(さけさかな)(たの)しんでいます。その(はた)では()りをする清元節(きよもとぶし)女性(じょせい)たちもいます。

三々五々(さんさんごご)岩場(いわば)(めぐ)りをしたり、本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)(もうで)たり、(はだか)子供(こども)たちに投銭(なげせん)をしてそれを海中(かいちゅう)(ひろ)わせたりして芸者(げいしゃ)(たの)しむ有様(ありさま)は、天保(てんぽう)9(ねん)(1830(ねん))に()かれた『富士大(ふじおお)山道(やまどう)(ちゅう)雑記(ざっき)(つき)()()(しま)鎌倉(かまくら)』にも「…(しま)入口(いりぐち)(ならびに)此所(このところ)にても子供(こども)数多(あまた)(おり)少々(しょうしょう)出銭(でせん)にて海中(かいちゅう)飛入(とびい)り、種々(しゅじゅ)芸事(げいごと)いたし(そうろう)(こと)」とあります。当時(とうじ)()(しま)(もうで)様子(ようす)をよく表現(ひょうげん)しています。
画題(がだい)にある「本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)」は、(いわや)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう)()わせて刊行(かんこう)されたことを証明(しょうめい)しているといっても過言(かごん)ではありません。

歌川広重 相州江の嶋弁才天開帳詣本宮岩屋の図

相州(そうしゅう)()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)()

制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4(ねん)嘉永(かえい)5(ねん)(1844~1853)(ころ)
板元(はんもと):住政(すみまさ)

江戸(えど)後期(こうき)になると()(しま)江戸(えど)(ちか)手頃(てごろ)行楽(こうらく)()として、弁財天(べんざいてん)信仰(しんこう)()わせて人気(にんき)(あつ)め、江戸(えど)人々(ひとびと)()講中(こうじゅう)()んで参詣(さんけい)することが(さか)んになり、(とく)に6(ねん)一度(いちど)開帳(かいちょう)(とき)多数(たすう)参詣(さんけい)(にん)(にぎわ)ったといわれます。この(おな)住吉屋政五郎(すみよしやまさごろう)から出版(しゅっぱん)された作品(さくひん)として「相州(そうしゅう)()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)本宮(ほんぐう)岩屋(いわや)()」があり、「()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)」と()わせて開帳(かいちょう)三部作(さんぶさく)(ひと)つです。

()(しま)参詣(さんけい)(むか)う4(くみ)(おんな)講中(こうじゅう)(そろ)いの日傘(ひがさ)(えが)()けています。まず中央(ちゅうおう)(れつ)先頭(せんとう)三本(さんぼん)(きね)江戸(えど)長唄(ながうた)杵屋(きねや)、それに(つづ)(ひし)()(かしわ)清元(きよもと)(ぶし)、その(ひだり)(かく)木瓜(もっこう)常磐津(ときわづ)(ぶし)画面(がめん)(みぎ)桜草(さくらそう)(もん)一群(いちぐん)富本節(とみもとぶし)人々(ひとびと)(かんが)えられます。いずれも音曲(おんぎょく)連中(れんちゅう)の、(いき)(つや)やかな行列(ぎょうれつ)です。『武江年表(ぶこうねんぴょう)』に嘉永(かえい)4(ねん)(1851(ねん))辛亥(かのとい)の2(がつ)28(にち)より百日間(ひゃくにちかん)(いわや)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう)があり江戸(えど)より参詣(さんけい)(にん)(おお)しとあります。まさにその(にぎ)わいを()せるような作品(さくひん)です。

歌川広重 相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図

相州(そうしゅう)()()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)参詣(さんけい)群集(ぐんしゅう)()()

板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)

(たて)()では、南湖(なんご)()(ちゅう)南期(なんご)表記(ひょうき))の松林(まつばやし)と、富士山(ふじさん)景色(けしき)(えが)かれています。ここから()える富士山(ふじさん)は、東海道(とうかいどう)左手(ひだりて)()えるため「左富士(ひだりふじ)」と()ばれ、南湖(なんご)吉原宿(よしわらしゅく)()ヶ所(かしょ)のみで()ることの出来(でき)希少(きしょう)景色(けしき)でした。

このシリーズが(たて)(がた)(ばん)であるため、一般(いっぱん)(たて)()東海道(とうかいどう)()ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 (さい))の作品(さくひん)です。
この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿場(しゅくば)鳥瞰図(ちょうかんず)訳注(やくちゅう)(とり)目線(めせん)(そら)から(なが)めた)ように(えが)方法(ほうほう))で(えが)かれ、町並(まちな)(とう)遠近法(えんきんほう)(もち)い、この()表題(ひょうだい)にもあるように東海道(とうかいどう)南湖(なんご)((げん)茅ヶ崎市(ちがさきし))の松並木(まつなみき)風景(ふうけい)(えが)いています。

南湖(なんご)藤沢宿(ふじさわしゅく)平塚宿(ひらつかしゅく)()立場(たちば)(宿場(しゅくば)宿場(しゅくば)()休憩(きゅうけい)場所(ばしょ))のあったところで、京都(きょうと)()かっていく道中(どうちゅう)富士山(ふじさん)(ひだり)()える「左富士(ひだりふじ)」の名所(めいしょ)(ひと)つでもありました。
訳注(やくちゅう)東海道(とうかいどう)京都(きょうと)()かう(さい)基本(きほん)(てき)右側(みぎがわ)富士山(ふじさん)()えるため、(めずら)しい場所(ばしょ)とされます。)現在(げんざい)でも鳥井(とりい)土橋(どばし)から、きれいな「左富士(ひだりふじ)」を()ることができます。

五十三次名所図会 七 藤沢(竪絵東海道)

五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) (なな) 藤沢(ふじさわ) 南湖(なんご)松原(まつばら)(ひだ)不二(ふじ)(たて)()東海道(とうかいどう)

蓮華座(れんげざ)(仏像台座(ぶつぞうだいざ))の最下部(さいかぶ)構成(こうせい)する上下二枚(じょうげにまい)(かまち)永禄八年(えいろくはちねん)(1565)の仏像製作(ぶつぞうせいさく)奉納時(ほうのうじ)銘文(めいぶん)がある。「相州小坂郡(そうしゅうこさかぐん) 大庭庄板戸(おおばのしょういた ど)坂戸(さかど)誤記(ごき)郷浄光寺(ごうじょうこうじ)」とあって、当時(とうじ)寺名表記(てらめいひょうき)がわかるほか、「大庭庄(おおばのしょう)」は、平安時代(へいあんじだい)大庭郷(おおばごう)中世(ちゅうせい)大庭御厨(おおばのみくりや)(伊勢神宮荘園(いせじんぐうしょうえん))に(つづ)地名(ちめい)列挙(れっきょ)される奉納者名(ほうのうしゃめい)のなかに、藤沢宿本陣家(ふじさわしゅくほんじんけ)蒔田家(まきたけ)など(のち)藤沢宿(ふじさわしゅく)有力者(ゆうりょくしゃ)先祖(せんぞ)にあたる()確認(かくにん)できるなど、藤沢宿以前(ふじさわしゅくいぜん)歴史(れきし)(かた)歴史資料(れきししりょう)として重要(じゅうよう)文化財(ぶんかざい)である。
 なお、現在(げんざい)安置(あんち)されている聖観音像(しょうかんのんぞう)近世後期(きんせいこうき)のものであり、蓮華座(れんげざ)指定(してい)(さい)して、(つけたり)として指定(してい)された。

銘文(めいぶん)1】(最下段(さいかだん))  最大径(さいだいけい)31.8㎝・(たか)4.5㎝
敬白相州小坂郡(けいはくそうしゅうこさかぐん)大庭庄板戸郷浄光寺(おおばのしょうさかどごうじょうこうじ)本尊奉御光臺座(ほんぞんごこうだいざ)たてまつり/造立諸旦那結衆頓證(ぞうりゅうしょだんなけっしゅとんしょう)佛果無疑者也乃至法(ぶっかうたがいなきものなりないしほっ)界平等利益(かいびょうどうりやく)當寺ノ看主得譽恵撓(とうじのかんすとくよけいこう)鎌倉佛師中納言(かまくらぶっしちゅうなごん)宗翁(そうおう) (花押(かおう))/亍時永禄乙丑年(ときにえいろくきのとうし)四月一日(しがつついたち)
銘文(めいぶん)2】((した)から二番目(にばんめ))  最大径(さいだいけい)25.0㎝・(たか)3.4㎝
勧進(かんじん)  檀方源右衛門(だんぽうげんえもん)富塚善右衛門(とみづかぜんえもん)椙山六郎左衛門(すぎやまろくろうざえもん)北村由右衛門(きたむらよしえもん)福山□左衛門(ふくやま□ざえもん)端山□左衛門(はやま□ざえもん) 塩崎(しおざき□□□)石井□助郎(いしい□すけろう) 神崎□□介(かんざき□□すけ)蒔田宗左衛門(まきたそうざえもん) 小関右近介(こせきうこんのすけ)磯崎又七郎(いそざきまたしちろう) 曽□□左衛門(そ□□ざえもん)

所有管理者(しょゆうかんりしゃ)常光寺(じょうこうじ)

木造蓮華座(最下段)

木造(もくぞう)蓮華(れんげ)()

令和(れいわ)3(ねん)(2021)2月1日(がつついたち)指定(してい)
(たて)(よこ) 最大(さいだい)85㎝×85㎝ (たか)(やく)50㎝

 鳥居(とりい)(はしら)土台(どだい)(いし)です。現在(げんざい)遊行寺(ゆぎょうじ)宝物(ほうもつ)(かん)入口(いりぐち)(りょう)(わき)()かれていますが、もとは旧東海道(きゅうとうかいどう)から()かれて南下(なんか)する()島道(しまみち)入口(いりぐち)(藤沢(ふじさわ)1丁目(ちょうめ)遊行寺(ゆぎょうじ)橋西(ばしにし)(づめ)自動車排出(じどうしゃはいしゅつ)ガス測定(そくてい)(きょく)付近(ふきん))にあった江島神社(えのしまじんじゃ)遥拝(ようはい)鳥居(とりい)(くつ)(いし)です。文政(ぶんせい)(ろく)(ねん)(1823)に()てられた青銅(せいどう)(せい)鳥居(とりい)(()代目(だいめ)初代(しょだい)明和(めいわ)(ろく)(ねん)・1769)が、明治(めいじ)(じゅう)(さん)(ねん)(1880)十一月(じゅういちがつ)藤沢宿(ふじさわしゅく)大火(たいか)焼損(しょうそん)し、(よく)明治(めいじ)(じゅう)()(ねん)四月(しがつ)木造(もくぞう)((もく)(ちゅう)銅板(どうばん)()き)として再建(さいけん)(三代(さんだい)())された(さい)(くつ)(いし)であることが、(くつ)(いし)側面(そくめん)(きざ)まれた銘文(めいぶん)からわかります。

 その()明治(めいじ)(さん)(じゅう)(ねん)(ごろ)鳥居(とりい)腐朽(ふきゅう)のためか、撤去(てっきょ)されたようですが、(くつ)(いし)はそのまま残置(ざんち)されていました。そして、大正(たいしょう)末期(まっき)()島道(しまみち)新道(しんどう)建設(けんせつ)(おり)道路(どうろ)拡幅(かくふく)(さまた)げがあるとして、藤沢宿(ふじさわしゅく)人々(ひとびと)により清浄光寺(しょうじょうこうじ)へと(はこ)ばれたと(つた)えられています。

 浮世絵(うきよえ)(るい)(えが)かれる藤沢宿(ふじさわしゅく)()(ぐち)鳥居(とりい)(くつ)(いし)で、藤沢宿(ふじさわしゅく)のシンボル(てき)構造物(こうぞうぶつ)実物(じつぶつ)資料(しりょう)として、歴史的(れきしてき)価値(かち)(たか)いものです。

所有(しょゆう)管理者(かんりしゃ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)遊行寺(ゆぎょうじ)


歌川広重(うたがわひろしげ)狂歌(きょうか)(いり)東海道(とうかいどう)



 大鋸(だいぎり)(ばし) ((げん)遊行寺(ゆぎょうじ)(ばし))を(わた)って、(みぎ)藤沢宿(ふじさわしゅく)(ひだり)()(しま)(みち)。その()(ぐち)鳥居(とりい)があります。

 この鳥居(とりい)明治(めいじ)大火(たいか)焼損(しょうそん)しました。それを再建(さいけん)した鳥居(とりい)(くつ)(いし)指定(してい)文化財(ぶんかざい)です。

江の島道入口鳥居の沓石 宝物館入口左側

()島道(しまみち)入口(いりぐち)鳥居(とりい)(くつ)(いし)

平成(へいせい)30(ねん)(2018)2月1日(がつついたち)指定(してい)/養命寺(ようめいじ)本尊仏(ほんぞんぶつ)国指定重要文化財(くにしていじゅうようぶんかざい)薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)眷属仏(けんぞくぶつ)です。十五世紀(じゅうごせいき)(室町時代初期(むろまちじだいしょき))製作(せいさく)推定(すいてい)される木造仏像(もくぞうぶつぞう)12(てん)で、おのおの十二支(じゅうにし)(ひと)つに()てられています。像高(ぞうこう)は72.4~78.5cm(台座(だいざ)(のぞ)現存部(げんそんぶ))。檜材(ひのきざい)寄木造(よせぎづくり)玉眼(ぎょくがん)(水晶(すいしょう)())、一部(いちぶ)彩色(さいしき)で、手首(てくび)持物(じもつ)頭部(とうぶ)十二支動物像(じゅうにしどうぶつぞう)などに欠失(けっしつ)がありますが、鎌倉地方(かまくらちほう)中世彫刻(ちゅうせいちょうこく)らしい写実味(しゃじつみ)()びた力強(ちからづよ)堅実(けんじつ)中世仏像(ちゅうせいぶつぞう)遺作(いさく)として貴重(きちょう)です。「()」の宮昆羅大将像(くびらたいしょうぞう)像内銘(ぞうないめい)永正十八年再興(えいしょうじゅうはちねんさいこう)」など、胎内(たいない)銘文(めいぶん)修理札(しゅうりふだ)から永正十八年(えいしょうじゅうはちねん)(1521)、宝永六年(ほうえいろくねん)(1709)、元文三年(げんぶんさんねん)(1738)、文政七年(ぶんせいしちねん)(1824)、明治四年(めいじよねん)(1871)の修理年代(しゅうりねんだい)や、それにたずさわった鎌倉(かまくら)江戸(えど)(日本橋(にほんばし)神田(かんだ)浅草(あさくさ))の修理(しゅうり)仏師(ぶっし)()(あき)らかである(てん)特筆(とくひつ)されます。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)養命寺(ようめいじ)

木造(もくぞう)十二神将(じゅうにしんしょう)立像(りゅうぞう)

平成(へいせい)29(ねん)(2017)5月2日(がつふつか)登録(とうろく)大正(たいしょう)13(ねん)(1924(ねん))に「越前屋号合名会社(えちぜんやごうごうどうかぶしきがいしゃ)雨谷商店(あまやしょうてん)」の店舗兼住居(てんぽけんじゅうきょ)として、境川(さかいがわ)にかかる大正橋(たいしょうばし)(ちか)くに建築(けんちく)されました。雨谷商店(あまやしょうてん)前身(ぜんしん)である「越前(えちぜん)や 與左衛門(よざえもん)」は、江戸時代中期(えどじだいちゅうき)から清浄光寺(しょうじょうこうじ)遊行寺(ゆぎょうじ))の惣門前(そうもんまえ)薬品(やくひん)砂糖(さとう)などを(あつか)っていた卸商(おろししょう)大正(たいしょう)8(ねん)(1919(ねん))に店舗兼家屋(てんぽけんかおく)(あら)たに()(なお)しましたが、大正(たいしょう)12(ねん)(1923(ねん)関東大地震(かんとうだいじしん)によって倒壊(とうかい)翌年(よくとし)場所(ばしょ)大正橋(たいしょうばし)(ちか)くに移転(いてん)新築(しんちく)しました。新築(しんちく)(さい)し、震災(しんさい)倒壊(とうかい)した家屋(かおく)部材(ぶざい)再利用(さいりよう)されました。雨谷商店(あまやしょうてん)昭和恐慌(しょうわきょうこう)影響(えいきょう)閉店(へいてん)し、建物(たてもの)商店(しょうてん)関係者(かんけいしゃ)購入(こうにゅう)して昭和(しょうわ)13(ねん)(1938(ねん))に打戻(うちもどり)移築(いちく)住居(じゅうきょ)として使(つか)われました。その()盛岩寺(せいがんじ)(ゆず)()平成(へいせい)24(ねん)(2012(ねん))に境内(けいだい)移築(いちく)されました。大商店(だいしょうてん)店舗兼住居(てんぽけんじゅうきょ)であったため、規模(きぼ)(おお)きさ、硝子(がらす)貴重(きちょう)木材(もくざい)()しみなく使(つか)っている(てん)など通常(つうじょう)民家(みんか)には()られない特色(とくしょく)(おお)くあります。出桁(だしげた)(ひさし)(ふと)(けた)など、震災復興期(しんさいふっこうき)らしい重厚(じゅうこう)さが()られます。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建(もくぞうひらやだて) 鋼板葺(はがねいたぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)大正(たいしょう)13(ねん)建築(けんちく)昭和(しょうわ)13(ねん)移築(いちく)平成(へいせい)24(ねん)移築(いちく)建築面積(けんちくめんせき):138㎡。所有者(しょゆうしゃ)盛岩寺(せいがんじ)

(きゅう)越前屋(えちぜんや)雨谷(あまや)商店(しょうてん)店舗(てんぽ)(けん)(しゅ)(おく)

平成(へいせい)29(ねん)((2017)10(がつ)27(にち) 登録(とうろく)石曽根家(いしそね)は、旧東海道(きゅうとうかいどう)沿()いで江の島道(えのしまみち)との分岐点(ぶんきてん)のやや西側(にしがわ)()り、屋号(やごう)は「マルイシ」で履物屋(はきものや)下駄屋(げたや))を(いとな)んでいました。昭和(しょうわ)8年刊行(ねんかんこう)の『現在(げんざい)藤沢(ふじさわ)』によれば、創業者(そうぎょうしゃ)達次氏(たつじし)明治(めいじ)11(ねん)鵠沼(くげぬま)()まれ、藤沢(ふじさわ)履物屋(はきものや)老舗(しにせ)石上(いしかみ)宮澤辰五郎氏(みやざわたつごろうし)弟子(でし)となり東京(とうきょう)横浜(よこはま)修行(しゅぎょう)したのち、明治(めいじ)34(ねん)藤沢(ふじさわ)(もど)って(みせ)(ひら)いたとされています。また同書(どうしょ)には「履物業界(はきものぎょうかい)中略(ちゅうりゃく))、新興気鋭(しんしんきえい)業者(ぎょうしゃ)としては西(にし)台町(だいまち)松本屋(まつもとや)中央(ちゅうおう)(なか)(ちょう)高倉屋(たかくらや)(ひがし)旅籠町(はたごまち)石曽根(いしそね)(とう)ありて、(たが)いにその()(あらそ)ふに()たり」ともあり、(おお)くの職人(しょくにん)(かか)えた藤沢有数(ふじさわゆうすう)履物屋(はきものや)でありました。創業当初(そうぎょうとうしょ)江の島道沿(えのしまみちぞ)いに(みせ)(かま)えていましたが、大正(たいしょう)12(ねん)関東大地震(かんとうおおじしん)(さい)店舗(てんぽ)などが境川(さかいがわ)崩落(ほうらく)する被害(ひがい)()い、震災後(しんさいご)現在地(げんざいち)移転(いてん)現存(げんそん)する店舗(てんぽ)(けん)(しゅ)(おく)棟札(むなふだ)などの史料(しりょう)()くが、建物(たてもの)登記(とうき)刊行(かんこう)(ぶつ)記述(きじゅつ)から大正(たいしょう)13(ねん)竣工(しゅんこう)判断(はんだん)できる。 構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう)2階建(かいだて) 鉄板葺(てっぱんぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)大正(たいしょう)13(ねん)建築(けんちく)昭和(しょうわ)42(ねん)改修(かいしゅう)建築面積(けんちくめんせき):115㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

(きゅう)石曽根(いしそね)商店(しょうてん)店舗(てんぽ)(けん)(しゅ)(おく)



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