Fujisawa Net Museum

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柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の未完(みかん)の長編(ちょうへん)【草双紙(くさぞうし)】。
挿絵(さしえ)は歌川国貞(うたがわくにさだ)。文政(ぶんせい)12年(ねん)(1829年(ねん)) - 天保(てんぽう)13年(ねん)(1842年(ねん))刊(かん)。大当(おおあ)たりし、14年(ねん)に渡(わた)って執筆(しっぴつ)し種彦(たねひこ)の代表作(だいひょうさく)となりましたが、作者(さくしゃ)の筆禍(ひっか)(当時(とうじ)の政治(せいじ)に対(たい)しての不満(ふまん)等(とう)を記(しる)し罰(ばっ)せられる意味(いみ))と死去(しきょ)により、第(だい)38編(へん)(152冊(さつ))までに終(お)わっています。紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語(げんじものがたり)』を下敷(したじ)きにし、時代(じだい)を平安時代(へいあんじだい)から室町時代(むろまちじだい)へ移(うつ)して、将軍(しょうぐん)足利義政(あしかがよしまさ)の妾腹(しょうふく)の子(こ)・光氏(みつうじ)が、将軍位(しょうぐんい)を狙(ねら)う山名宗全(やまなそうぜん)を抑(おさ)えるため、光源氏(ひかるげんじ)的(てき)な好色遍歴(こうしょくへんれき)を装(よそお)いながら、宗全一味(そうぜんいちみ)をはかりごとで滅(ほろ)ぼした後(のち)、京都(きょうと)に戻(もど)り、将軍後見役(しょうぐんこうけんやく)となって栄華(えいが)を極(きわ)める、という内容(ないよう)です。

偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)

講(こう)の提携宿(ていけいやど)等(とう)を記(しる)した【道中記(どうちゅうき)(講帳(こうちょう))】。
江戸日本橋(えどにほんばし)から東海道(とうかいどう)、伊勢参宮道(いせさんぐうみち)、大和廻り順道(やまとめぐりじゅんみち)等(とう)の定宿(じょうやど)を記(しる)しています。
関東講(かんとうこう)は浪花講(なにわこう)(文化元年(ぶんかがんねん)(1804)結成(けっせい))と前後(ぜんご)して創設(そうせつ)された旅(たび)の講中(こうじゅう)で、旅人(たびびと)に安心(あんしん)して泊(と)まれる旅籠屋(はたごや)を提供(ていきょう)するため、主要街道(しゅようかいどう)の優良(ゆうりょう)旅籠屋(はたごや)を指定(してい)し、組合(くみあい)に入(はい)ってもらい、旅籠屋(はたごや)には目印(めじるし)の看板(かんばん)が掲(かか)げられていました。
江(え)の島(しま)の定宿(じょうやど)は江戸(えど)や忠五郎(ちゅうごろう)と戎(えびす)や吉右衛門(きちえもん)。藤沢宿(ふじさわしゅく)は蔦屋(つたや)又兵衛(またべい)。四ッ谷(よつや)は八(は)(羽)(は)鳥(とり) や八左衛門(はちざえもん)が記(しる)されています。

関東(かんとう)講(こう) 江戸(えど)組(くみ) 月参(げっさん)講(こう) 定宿(じょうやど)判取帳(はんとりちょう)

制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい)。
落款(らっかん)なし

泥絵(どろえ)とは、泥絵具(どろえのぐ)という粗悪(そあく)な顔料(がんりょう)に胡粉(ごふん)を混(ま)ぜた絵具(えのぐ)で描(えが)いたもので、宝暦(ほうれき)頃(ごろ)を最初(さいしょ)として、19世紀(せいき)前半(ぜんはん)頃(ごろ)まで職人(しょくにん)画工(がこう)の手(て)で作(つく)られた遠近法(えんきんほう)を主体(しゅたい)とした洋風(ようふう)表現(ひょうげん)の強(つよ)い絵(え)のことです。
眼鏡絵(めがねえ)として制作(せいさく)されたものが多(おお)いので、銅版(どうはん)や木版(もくはん)で制作(せいさく)された作品(さくひん)以外(いがい)の肉筆(にくひつ)眼鏡絵(めがねえ)を泥絵(どろえ)と称(しょう)する場合(ばあい)もあります。この絵(え)も左右(さゆう)逆(ぎゃく)影(かげ)に描(えが)かれており、のぞき眼鏡(めがね)用(よう)に制作(せいさく)されたものであることがわかります。

作品(さくひん)としては、中国(ちゅうごく)やオランダから渡来(とらい)した「覗(のぞ)きからくり」のための絵(え)を宝暦(ほうれき)年間(ねんかん)(1751-1764年(ねん))に円山応挙(まるやまおうきょ)が制作(せいさく)したのが最初(さいしょ)のものと言(い)われています。

作者不詳 無題(江の島風景)

題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)風景(ふうけい))

忠臣蔵(ちゅうしんぐら)の物語(ものがたり)を扱(あつか)った『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の登場人物(とうじょうじんぶつ)が、人気役者(にんきやくしゃ)の似顔(にがお)で描(えが)かれたシリーズのうちの一(ひと)つです。描(えが)かれた人物(じんぶつ)は四代目(よんだいめ)瀬川路考(せがわろうこう)の戸無瀬(となせ)、初代(しょだい)瀬川仙女(せがわせんじょ)の小浪(こなみ)という母娘(おやこ)で、二人(ふたり)は東海道(とうかいどう)を通(とお)り、小浪(こなみ)の許婚(いいなずけ)である大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)(史実(しじつ)の大石内蔵助(おおいしくらのすけ))の息子(むすこ)である大星力弥(おおぼしりきや)に会(あ)いに行(い)きます(八段目(はちだんめ)「道行旅路嫁入(みちゆきたびじのよめいり)」)。物語物語中(ものがたりちゅう)では二人(ふたり)が江の島(えのしま)に向(む)かうという設定(せってい)はありませんが、旅(たび)の情景(じょうけい)を表(あらわ)すために東海道(とうかいどう)の寄(よ)り道(みち)として多(おお)くの人(ひと)が訪(おとず)れた江の島(えのしま)を背景(はいけい)に用(もち)いたと考(かんが)えられます。

役者(やくしゃ)見立(みたて)忠臣蔵(ちゅうしんぐら)八(はち)段(だん)目(め)之(の)図(ず)

手前(てまえ)には、美男子(びだんし)であったと名高(なだか)い八代目(はちだいめ)市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)演(えん)じる松若丸(まつわかまる)(画中(がちゅう)では松若(まつわか))が描(えが)かれ、画題枠(がだいわく)には「戸塚藤沢宿間(とつかふじさわしゅくかん) 吉田橋(よしだばし)」と書(か)かれていますが、背景(はいけい)には吉田橋(よしだばし)は描(えが)かれておりません。戸塚(とつか)の吉田橋(よしだばし)は柏尾川(かしおがわ)に架(か)かる橋(はし)で、東海道(とうかいどう)と鎌倉(かまくら)へと向(む)かう道(みち)への分岐点(ぶんきてん)でもありました。吉田橋(よしだばし)に松若丸(まつわかまる)が描(えが)かれた理由(りゆう)は、松若丸(まつわかまる)が京(きょう)の公家(くげ)である「吉田家(よしだけ)」の子息(しそく)という設定(せってい)に拠(よ)るものです。松若丸(まつわかまる)は謡曲(ようきょく)『隅田川(すみだがわ)』をアレンジした「隅田川(すみだがわ)もの」歌舞伎(かぶき)において、悲劇(ひげき)の死(し)を遂(と)げる少年(しょうねん)「梅若丸(うめわかまる)」の双子(ふたご)の兄(あに)として登場(とうじょう)します。

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 戸塚(とつか)藤沢(ふじさわ)間(かん) 吉田橋(よしだばし) 松若(まつわか)



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