ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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富士山(ふじさん)の真東(まひがし)にある須走(すばしり)口(ぐち)の浅間神社(あさまじんじゃ)の鳥居(とりい)の前(まえ)に集(あつ)まる人々(ひとびと)の様子(ようす)を描(えが)いています。 菅笠(すげがさ)に白装束(しろしょうぞく)をまとい、首(くび)から数珠(じゅず)をかけた先達(せんだつ)(登山(とざん)の案内人(あんないにん))が描(えが)かれています。 何人(なんにん)かが肩(かた)に背負(せお)っているのは、御(ご)三幅(みの)の入(はい)った札箱(ふだばこ)です。御(ご)三幅(みの)とは登(のぼる)拝(はい)の際(さい)に祭壇(さいだん)に掲(かか)げる3本(ほん)の掛軸(かけじく)のことで、御(ご)身抜(みぬけ)(富士(ふじ)信仰(しんこう)の世界観(せかいかん)を表(あらわ)した掛軸(かけじく))、浅間神社(あさまじんじゃ)の祭神(さいじん)である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)命(いのち)の御影(ごえい)(神仏(しんぶつ)の姿(すがた)を絵(え)に描(か)いたもの)、小(しょう)御嶽(みたけ)神(かみ)の掛軸(かけじく)、をいいます。この画(え)は、もともと団扇(うちわ)に仕立(した)てるために摺(す)られたものが、使用(しよう)されずに残(のこ)ったものです。
富士山(ふじさん)東口(ひがしぐち)須(ず)走(ばし)り之(の)図(ず)
明治(めいじ)十八年(じゅうはちねん)四月(しがつ)十五日(じゅうごにち)より、深川(ふかがわ)不動堂(ふどうどう)で成田山(なりたさん)新勝寺(しんしょうじ)の開帳(かいちょう)があり、民衆(みんしゅう)が参詣(さんけい)にきている様子(ようす)を描(えが)いたものです。開帳(かいちょう)は六十日間(ろくじゅうにちかん)おこなわれ、庶民(しょみん)に利益(りえき)を施(ほどこ)したと記(しる)されています。内陣(ないじん)の不動明王(ふどうみょうおう)を拝(おが)もうと大勢(おおぜい)の人々(ひとびと)が集(あつ)まっており、当時(とうじ)の成田山(なりたさん)の不動明王(ふどうみょうおう)信仰(しんこう)の賑(にぎ)わいが伝(つた)わってきます。
不動尊(ふどうそん)内陣(ないじん)之(の)図(ず)(船橋市(ふなばしし)西(にし)図書館(としょかん)所蔵(しょぞう))
戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)下(か)の関東(かんとう)地方(ちほう)における旧幕府(きゅうばくふ)方(かた)と新(しん)政府(せいふ)方(かた)の争(あらそ)いを一般(いっぱん)の庶民(しょみん)が、成田山(なりたさん)詣(もう)でをする姿(すがた)に変(か)えて風刺(ふうし)した錦絵(にしきえ)です。左側(ひだりがわ)の浪花講(なにわこう)中(ちゅう)ののぼりを立(た)てているのが新政(しんせい)府側(ふがわ)で、江戸(えど)講中(こうじゅう)ののぼりを立(た)てているのが旧幕(きゅうばく)府側(ふがわ)です。譜代(ふだい)藩(はん)、旗本領(はたもとりょう)の多(おお)かった関東(かんとう)地方(ちほう)は、侵攻(しんこう)してきた新(しん)政府(せいふ)軍(ぐん)と脱走(だっそう)した旧(きゅう)幕府(ばくふ)軍(ぐん)との争(あらそ)いが、県内(けんない)では、船橋(ふなばし)・市川(いちかわ)、その他(ほか)では、岩井(いわい)、宇都宮(うつのみや)、小山(こやま)などであり、砲声(ほうせい)が轟(とどろ)くなど不穏(ふおん)な空気(くうき)が漂(ただよ)っていたと当時(とうじ)の記録(きろく)に残(のこ)っています。
諸人(しょじん)成田山(なりたさん)参詣(さんけい)之(の)図(ず)(船橋市(ふなばしし)西(にし)図書館(としょかん)所蔵(しょぞう))
江戸(えど)から船(ふね)で成田(なりた)詣(もうで)に行(い)くときには、江戸(えど)川(かわ)を上(のぼ)り、関宿(せきしゅく)から利根川(とねがわ)を下(くだ)り、木下(きのした)・安食(あじき)河岸(がし)に出(で)て、そこから陸路(りくろ)を成田(なりた)に向(むか)う道中(どうちゅう)となります。背景(はいけい)には筑波山(つくばさん)が見(み)えており、前景(ぜんけい)に描(えが)かれた2艘(そう)の船(ふね)に乗(の)るのは、大絵馬(おおえま)の奉納(ほうのう)に向(むか)う歌舞伎(かぶき)役者(やくしゃ)の一行(いっこう)です。
御礼参(おれいまい)り贔屓(ひいき)船(ぶね)之(の)図(ず)(船橋市(ふなばしし)西(にし)図書館(としょかん)所蔵(しょぞう))
歌舞伎(かぶき)役者(やくしゃ)たちが成田山(なりたさん)新勝寺(しんしょうじ)の開帳(かいちょう)にあわせて参詣(さんけい)にきている様子(ようす)を描(えが)いています。成田山(なりたさん)新勝寺(しんしょうじ)は、初代(しょだい)市川(いちかわ)団十郎(だんじゅうろう)の信仰(しんこう)から江戸時代(えどじだい)に多(おお)くの人々(ひとびと)に知(し)られるようになりました。歴代(れきだい)の団十郎(だんじゅうろう)の中(なか)でも七代目(ななだいめ)は門弟(もんてい)を連(つ)れて毎年(まいとし)参詣(さんけい)し、多(おお)くの奉納(ほうのう)品(ひん)を納(おさ)めて新勝寺(しんしょうじ)と市川(いちかわ)家(け)の関係(かんけい)を深(ふか)めたとされます。
成田山(なりたさん)開帳(かいちょう)参詣(さんけい)群集(ぐんしゅう)図(ず)(船橋市(ふなばしし)西(にし)図書館(としょかん)所蔵(しょぞう))
歌舞伎(かぶき)の演目(えんもく)「源氏(げんじ)模様(もよう)娘(ふりそで)雛形(ひながた)」の話(はなし)の中(なか)で、身(み)を投(な)げた平野屋(ひらのや)徳兵衛(とくべえ)が成田(なりた)不動(ふどう)の索(なわ)によって川(かわ)の中(なか)から引(ひ)き揚(あ)げられる場面(ばめん)を描(えが)いています。徳兵衛(とくべえ)を演(えん)じた八代(やつしろ)目(め)団十郎(だんじゅうろう)は、大病(たいびょう)を患(わずら)ったとき、成田(なりた)不動(ふどう)に祈願(きがん)したところ全快(ぜんかい)し命(いのち)を救(すく)われたというエピソードがあります。不動明王(ふどうみょうおう)の索(なわ)によって川(かわ)から引(ひ)き揚(あ)げられる徳兵衛(とくべえ)と重(かさ)なるようです。
文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)期(き)に一世(いっせい)を風靡(ふうび)した人気(にんき)歌舞伎(かぶき)役者(やくしゃ)、「成田(なりた)屋(や)」七代目(ななだいめ)市川(いちかわ)団十郎(だんじゅうろう)が赤子(あかご)を抱(いだ)いての宮参(みやまい)りの図(ず)とされています。抱(いだ)かれている赤子(あかご)は、文政(ぶんせい)6年(ねん)10月(がつ)5日(にち)に生(う)まれた新之助(しんのすけ)。新之助(しんのすけ)は後(あと)に八代目(はちだいめ)団十郎(だんじゅうろう)になります。
七(なな)代目(だいめ)市川(いちかわ)団十郎(だんじゅうろう)成田山(なりたさん)参詣(さんけい)之(の)図(ず)(船橋市(ふなばしし)西(にし)図書館(としょかん)所蔵(しょぞう))
融通(ゆうずう)念仏(ねんぶつ)縁起(えんぎ)絵巻(えまき)の写本(しゃほん)です。日本(にほん)仏教(ぶっきょう)の宗派(しゅうは)の一(ひと)つである融通(ゆうずう)念仏宗(ねんぶつしゅう)の開祖(かいそ)(founder)、良忍(りょうにん)上人(しょうにん)の伝記(でんき)と合(あ)わせて融通(ゆうずう)念仏(ねんぶつ)の由来(ゆらい)や功徳(くどく)を描(えが)いたものです。融通(ゆうずう)念仏(ねんぶつ)とは、念仏(ねんぶつ)を口(くち)に出(だ)して唱(とな)えることで自分(じぶん)と他人(たにん)、あらゆるものが仏(ほとけ)の功徳(くどく)によって溶(と)け合(あ)い、現世(げんせ)(この世(よ))を極楽浄土(ごくらくじょうど)にすることができるという教(おし)えです。融通(ゆうずう)念(ねん)仏(ぶつ)の教(おし)えを広(ひろ)めるために多(おお)くの写本(しゃほん)がつくられました。展示(てんじ)作品(さくひん)は、京都(きょうと)生(う)まれの日本(にほん)画家(がか)、猪飼(いがい)嘯(しょう)谷(こく)(1881-1939)によって写(うつ)された写本(しゃほん)です。
融通(ゆうずう)念仏(ねんぶつ)縁起(えんぎ)絵巻(えまき)