Fujisawa Net Museum

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北側(きたがわ)(しま)入口(いりぐち)にある青銅製(せいどうせい)鳥居(とりい)のそばに「新地(しんち)」と(しる)されています。ここは明治(めいじ)になってから()()てられた場所(ばしょ)です。参道(さんどう)両脇(りょうわき)には、「江戸(えど)や」「さぬきや」「堺屋(さかいや)」「岩本楼(いわもとろう)」「恵比寿(えびす)や」といった旅館(りょかん)名前(なまえ)()えます。(ふた)()鳥居(とりい)(さき)には「学校(がっこう)」とあります。ここは片瀬小学校江(かたせしょうがっこうえ)島分校(しまぶんこう)で、江戸時代(えどじだい)には三重塔(さんじゅうのとう)があったところです(現在(げんざい)市民(しみん)(いえ)あたり)。「学校(がっこう)」から(みなみ)上方(かみがた))へ(すす)むと、杉山検校(すぎやまけんぎょう)がその(いし)につまづいて(はり)極意(ごくい)会得(えとく)したという「福石(ふくいし)」があり、その(さき)に「邊(辺)津宮(へつのみや)」があります。隣接(りんせつ)して「八坂神社(やさかじんじゃ)」があるのは現在(げんざい)(おな)じです。「辺津宮(へつみや)」から(ひがし)()くと「中津宮(なかつみや)」があります。「中津宮(なかつみや)」からさらに(すす)むと左手(ひだりて)洋風(ようふう)建物(たてもの)があります。ここは横浜(よこはま)貿易商(ぼうえきしょう)サムエル・コッキングが明治時代(めいじじだい)居住(きょじゅう)した邸宅(ていたく)であると(かんが)えられています(現在(げんざい)のガーデンパーラー )。さらに()くと煉瓦(れんが)(れんが)の(へい)(かこ)まれた「植物園(しょくぶつえん)」(現在(げんざい)のサムエル・コッキング(えん))が(しる)されています。さらに(すす)むと「奥津宮(おくつみや)」に(いた)り、階段(かいだん)(くだ)ると「(嬰(稚児)が淵(ちごがふち))」、「御窟(おんいわや)岩屋(いわや))」へと(いた)ります。
 入口(いりぐち)青銅製(せいどうせい)鳥居(とりい)左側(ひだりがわ)には「東町(あずままち) 」と(しる)されている漁師町(りょうしまち)(ひろ)がっています。また、関東大震災(かんとうだいしんさい)により隆起(りゅうき)した「聖天島(しょうてんじま)」が、まだ(うみ)()()ている状態(じょうたい)(えが)かれています。

相州(そうしゅう)江之島(えのしま)真景(しんけい)

繪図屋(えずや)善兵衛(ぜんべえ)
文化(ぶんか)5(ねん)(1808)
この絵図(えず)は、()(しま)()(くち)に「絵図(えず)()」の屋号(やごう)のお(みせ)販売(はんばい)していた(しま)案内(あんない)()です。当時(とうじ)参詣(さんけい)(しゃ)島内(とうない)観光(かんこう)のために()られていました。
画面(がめん)(みぎ)()(しま)北側(きたがわ)入口(いりぐち))にあたる箇所(かしょ)(はい)しており、本来(ほんらい)なら()(ちゅう)には()えない位置(いち)にある南側(みなみがわ)岩屋(いわや)などが画面(がめん)(ひだり)展開(てんかい)されて(えが)かれ、()(しま)全体(ぜんたい)()(ちゅう)一望(いちぼう)できるような立体(りったい)(てき)構図(こうず)となっています。No.23やNo.25と(くら)べると、()(しま)(かたち)(こと)なりますが、No.25と同様(どうよう)富士山(ふじさん)()(ちゅう)右側(みぎがわ)(えが)かれています。さらに、富士山(ふじさん)手前(てまえ)には(げん)茅ヶ崎(ちがさき)海岸(かいがん)沖合(おきあい)にある「烏帽子岩(えぼしいわ)」が(えが)かれています。
()右上(みぎうえ)には版元(はんもと)店先(みせさき)寛政(かんせい)7(ねん)(1795)に火事(かじ)()い、版木(はんぎ)消滅(しょうめつ)した記述(きじゅつ)()かれており、こちらの絵図(えず)その()()りなおされた版木(はんぎ)()()しされたものです。左下(ひだりした)には「えのしま入口(いりぐち)(ひだり)がは かど」と版元(はんもと)住所(じゅうしょ)(しる)されています。版元(はんもと)の「絵図(えず)()」は、現在(げんざい)同地(どうち)土産物(みやげもの)()(いとな)んでいます。

江嶋(えのしま)一望(いちぼう)()

制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)嘉永(かえい)()(1844~1854)

画面(がめん)一杯(いっぱい)(ちゃ)藍色(あいいろ)(えが)かれた(おお)きな力強(ちからづよ)(いわ)(かたまり)表現(ひょうげん)しています。岩屋(いわや)稚児ヶ淵(ちごがふち)附近(ふきん)岩場(いわば)(めぐ)参詣(さんけい)(にん)姿(すがた)は、あくまでも(ちい)さく(あり)のように(えが)かれ、()(しま)(おお)きさと対称(たいしょう)(てき)です。

(しま)上部(じょうぶ)には(かみ)(みや)(しも)(みや)遠目鏡(とおめがね)(みぎ)下方(かほう)漁師町(りょうしまち)(ひだり)下方(かほう)岩屋(いわや)稚児ヶ淵(ちごがふち)があります。()(しま)全体(ぜんたい)(おお)きな(かたまり)でとらえたところは洋風(ようふう)()()んだ国芳(くによし)らしい作品(さくひん)です。

国芳(くによし)()(けい)はその門人(もんじん)(よし)(とら)(よし)(いく)芳年(よしとし)など幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)初期(しょき)大家(たいか)輩出(はいしゅつ)しました。そして芳年(よしとし)には年方(としかた)年方(としかた)には清方(きよかた)清方(きよかた)には深水(しんすい)巴水(はすい)()して、明治(めいじ)大正(たいしょう)昭和(しょうわ)(つづ)浮世絵(うきよえ)系統(けいとう)(はな)()えています。

歌川国芳 相州江之嶋之図

相州(そうしゅう)()()(しま)()()

歌川貞秀(うたがわさだひで)
元治(げんじ)元年(がんねん)(1864)
風景(ふうけい)動物(どうぶつ)植物(しょくぶつ)など様々(さまざま)事物(じぶつ)紹介(しょうかい)された図絵(ずえ)(しゅう)です。題名(だいめい)使(つか)われている「写真(しゃしん)」とは、「(しん)(うつ)し、実物(じつぶつ)実景(じっけい)をそのままとらえる」という意味(いみ)がありました。本作(もとさく)には旅行(りょこう)案内(あんない)役割(やくわり)()たしていた名所絵(めいしょえ)多数(たすう)(ふく)まれており、景色(けしき)とともに名称(めいしょう)(しる)されています。絵師(えし)貞秀(さだひで)は、役者絵(やくしゃえ)美人画(びじんが)風景画(ふうけいが)など幅広(はばひろ)いジャンルの浮世絵(うきよえ)手掛(てが)け、鳥瞰図(ちょうかんず)多数(たすう)制作(せいさく)した(こと)でも()られています。
展示(てんじ)(ちゅう)(ぺーじ)()(しま)(ない)名所(めいしょ)富士山(ふじさん)箱根山(はこねやま)豆州(ずしゅう)下田(しもだ)(みさき)紹介(しょうかい)しており、()(しま)岩屋(いわや)正面(しょうめん)(えが)かれています。(ひだり)から「(りゅう)(あかり)(まつ)」、「龍穴(りゅうけつ)」、「上ノ宮(かみのみや)」、「ロウ(もん)楼門(ろうもん))」、「(とう)」、「(しも)(みや)」、「岩本院(いわもといん)」、「茶屋(ちゃや)(まち)」、「(いち)ノトリ()(いち)鳥居(とりい))」、や「リヤウンマチ(漁師町(りょうしまち))」といった島内(とうない)重要(じゅうよう)要所(ようしょ)(しる)されています。


鳥瞰図(ちょうかんず)(ひい)で「空飛ぶ絵師(そらと)絵師(えし)」とも()ばれた貞秀(さだひで)による【画帳(がちょう)】。
(だい)(さん)(へん)には、(たき)(やま)(しま)(など)風景画譜(ふうけいがふ)仁王像(におうぞう)(とう)画像(がぞう)(えが)かれています。

万象(ばんしょう)写真(しゃしん) 図譜(ずふ) (だい)(さん)(ぺん)

鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)
文化(ぶんか)年間(ねんかん)(1804-18)
(たか)視点(してん)から日本(にっぽん)国土(こくど)隅々(すみずみ)まで(とら)えた鳥瞰図(ちょうかんず)です。日本(にっぽん)(かたち)圧縮(あっしゅく)され、本州(ほんしゅう)手前(てまえ)(かく)(はん)(しろ)名所(めいしょ)(こま)かく(しる)されています。画面(がめん)下部(かぶ)記載(きさい)されている「相模(さがみ)」の箇所(かしょ)では()(しま)(おも)われる(しま)(えが)かれています。日本(にっぽん)全体(ぜんたい)上空(じょうくう)から見下(みお)ろしたように(えが)いた構図(こうず)当時(とうじ)(めずら)しかったのか、葛飾北斎(かつしかほくさい)真似(まね)て、「東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)一覧(いちらん)」に応用(おうよう)したといわれています。作者(さくしゃ)鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)北尾政美(きたおまさよし))は、北尾重政(きたおしげまさ)門人(もんじん)ですが、寛政(かんせい)6(ねん)(1794) 31(さい)津山藩(つやまはん)(げん)岡山県(おかやまけん))のお(かか)絵師(えし)となり、鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)紹真(つぐざね)(しょう)しました。

日本名(にほんめい)(しょ)()()

元禄(げんろく)3(ねん)(1690)
絵図(えず)製作者(せいさくしゃ)として活躍(かつやく)していた遠近道印(おちこちどういん)が(1620‐?)が作成(さくせい)した原図(げんず)(もと)にして、絵師(えし)菱川師宣(ひしかわもろのぶ)街道(かいどう)風景(ふうけい)(えが)いて、完成(かんせい)させた分間図(ぶんけんず)です。分間(ぶんけん)(ぶんけん)とは測量(そくりょう)するという意味(いみ)で、測量(そくりょう)(もと)づいて、縮尺(しゅくしゃく)して(えが)かれています。
本分間図(ほんぶんけんず)は、東海道(とうかいどう)宿駅間(しゅくえきかん)距離(きょり)沿道(えんどう)寺社(じしゃ)(かわ)(わた)(かた)茶屋(ちゃや)各地(かくち)名物(めいぶつ)などを()せた、縮尺(しゅくしゃく)正確(せいかく)道中(どうちゅう)案内(あんない)()でもあり、()(たの)しめる街道(かいどう)絵図(えず)として、何度(なんど)再版(さいはん)されました。元禄(げんろく)3(ねん)(ばん)は、大阪(おおさか)(しん)和泉町(いずみちょう)版元(はんもと)七郎(しちろう)兵衛(ひょうえ)により刊行(かんこう)されました。
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は、(いち)(まい)()浮世絵(うきよえ)版画(はんが)確立(かくりつ)(しゃ)で、「見返(みかえ)美人(びじん)()」などの肉筆(にくひつ)版本(はんぽん)挿絵(さしえ)などを数多(かずおお)(えが)きました。

東海道分間之図一

東海道(とうかいどう)分間之図(ぶんけんのず)

遠近道印(おちこちどういん)作成(さくせい)した元禄(げんろく)3(ねん)(1690)初版(しょはん)分間(ふんかん)()を、さらに桑楊(そうよう)編集(へんしゅう)発行(はっこう)したものです。天保(てんぽう)12(ねん)(1841)に刊行(かんこう)されました。本図(もとず)凡例(はんれい)に「(いにしえ)()三分(みぶん)(いち)(ちょう)(つも)りなり(この)()一分(いちぶ)(いち)(ちょう)(つも)りを()ってしるす」とあります。元禄(げんろく)3年(さんねん)(ばん)は、1(ちょう)(やく)109m)を3(ふん)(やく)9mm)の縮尺(しゅくしゃく)で、本図(もとず)では1(ちょう)(やく)109m)を1分(いっぷん)(やく)3mm)の縮尺(しゅくしゃく)(えが)いています。初版(しょはん)元禄(げんろく)3年(さんねん))はのちにコンパクトに改訂(かいてい)され、天保(てんぽう)(ばん)では初版(しょはん)になかった近隣(きんりん)名所(めいしょ)茶屋(ちゃや)などの情報(じょうほう)(さら)()()まれています。
天保(てんぽう)(ばん)では、大阪(おおさか)吉文字(きちもんじ)()市兵衛(いちべえ)出版(しゅっぱん)した「東海道(とうかいどう)分間(ぶんかん)絵図(えず)」を、(さら)京都(きょうと)竹原(たけはら)(こう)兵衛(ひょうえ)刊行(かんこう)しており、版元(はんもと)次々(つぎつぎ)()わっているのが()かります。

東海道(とうかいどう)分間絵図(ぶんけんえず)



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