ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 二代広重(にだいひろしげ)は初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)の重宣時代(しげのぶじだい)、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)、離婚後(りこんご)横浜(よこはま)に住(す)んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)~明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)の時(とき)に数点(すうてん)の東海道(とうかいどう)シリーズを残(のこ)しています。
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(えき) 日本橋(にほんばし) 繁栄(はんえい)之(の)図(ず)
ね助(すけ)と頓(とん)太郎(たろう)という二人(ふたり)の主人公(しゅじんこう)が江(え)の島(しま)参詣(さんけい)をする道中(どうちゅう)で、さまざまな失敗(しっぱい)や滑稽(こっけい)をくり広(ひろ)げるさまを書(か)いた物語(ものがたり)です。主人公(しゅじんこう)の名前(なまえ)は違(ちが)えど、一九(いっく)ら弥次喜多(やじきた)を意識(いしき)して生(う)み出(だ)したキャラクターと思(おも)われます。 挿絵(さしえ)は、荷(に)編(へん)を初代(しょだい)喜多川(きたがわ)歌麿(うたまろ)門下(もんか)の喜多川月麿(きたがわつきまろ)が描(えが)いています。月(つき)麿(まろ)は初名(はつな)が菊(きく)麿(まろ)で、享和(きょうわ)2年(ねん)(1802)に喜久麿(きくまろ)、そして文化(ぶんか)1年(ねん)(1804)に月(つき)麿(まろ)と改名(かいめい)しました。美人画(びじんが)を得意(とくい)とし、草双紙(くさぞうし)の挿絵(さしえ)も描(えが)いています。
江之島(えのしま)土産(みやげ)
十四(じゅうよん)代(だい)将軍(しょうぐん)徳川(とくがわ)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)に際(さい)して作(つく)られた、十(じゅう)枚(まい)続(つづき)という大作(たいさく)の名所(めいしょ)絵(え)です。画面(がめん)全体(ぜんたい)を巻物(まきもの)の形態(けいたい)に似(に)せており、行列(ぎょうれつ)を描(えが)きつつ各(かく)宿場(しゅくば)や沿道(えんどう)の名所(めいしょ)も記(しる)されています。 俯瞰(ふかん)的(てき)な視点(してん)で描(えが)かれ、東海道(とうかいどう)を一望(いちぼう)できるようになっています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)一覧(いちらん)
弘化(こうか)4年(ねん)-嘉永(かえい)5年(ねん)(1847-52) 初代(しょだい)広重(ひろしげ)の蔦屋(つたや)版(ばん)東海道(とうかいどう)シリーズの一枚(いちまい)です。原宿(はらじゅく)は、東海道(とうかいどう)で最(もっと)も富士山(ふじさん)に近(ちか)い位置(いち)にあるため、画(が)中(ちゅう)では、富士山(ふじさん)が枠線(わくせん)を超(こ)えて雄大(ゆうだい)に描(えが)かれています。
東海道(とうかいどう) 十四(じゅうよん) 五十三次(ごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 原(はら)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「日本橋(にほんばし) 朝之景(あさのかげ)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 広重(ひろしげ)の作品(さくひん)では橋(はし)の上(うえ)に大名行列(だいみょうぎょうれつ)の出立風景(しゅったつふうけい)が描(えが)かれますが、本作(ほんさく)では橋(はし)の上(うえ)は荷(に)を満載(まんさい)した大八車(だいはちぐるま)、橋(はし)の手前(てまえ)は天秤棒(てんびんぼう)を担(かつ)いだ棒手振(ぼてふ)りが描(えが)かれるなど、庶民(しょみん)の通交風景(つうこうふうけい)となっています。 また画面(がめん)左上(ひだりうえ)には富士山(ふじさん)が書(か)き加(くわ)えられ、正月(しょうがつ)の風情(ふぜい)でしょうか、並(なら)ぶように凧(たこ)が揚(あ)がっています。手前(てまえ)の女性(じょせい)の振(ふ)り袖(そで)の柄(がら)も大輪(たいりん)の梅(うめ)で、正月(しょうがつ)にふさわしいものとなっています。板元(はんもと)は森屋治兵衛(もりやじへえ)。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 日本橋(にほんばし)之(の)図(ず)
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)5年(ねん)(1808) 8月(がつ)。 板元(はんもと):山口(やまぐち) 人々(ひとびと)が岩屋(いわや)に集(たか)ったところを描(えが)いたもので、構図(こうず)の中心人物(ちゅうしんじんぶつ)は扇子(せんす)を持(も)った若(わか)い男性(だんせい)で、その前(まえ)には尾頭(おかしら)つきの鯛(たい)などの料理(りょうり)が並(なら)べられており、何(なに)か特別(とくべつ)な祝(しゅく)事(ごと)がこの年(とし)にあった事(こと)を示(しめ)しているようです。作品(さくひん)としては右(みぎ)の1枚(まい)が少(すこ)し短(みじか)くなっています。
相州(そうしゅう)江(え)ノ嶋(しま)巌(いわ)屋(や)の図(ず)
制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい)。落款(らっかん)なし 喜多川(きたがわ)歌政(かせい)の作(さく)と伝(つた)えられます。紙本(しほん)著色(ちょしょく)六曲(ろっきょく)一隻(いっせき)屏風(びょうぶ)で、金地(きんじ)の六曲(ろくきょく)屏風(びょうぶ)に七里ガ浜(しちりがはま)から見(み)た江(え)の島(しま)を描(えが)き、左方(さかた)には房総半島(ぼうそうはんとう)もかすかに見(み)えます。 江(え)の島(しま)とそれに弧(こ)を描(えが)いて続(つづ)く七里ガ浜(しちりがはま)と丘陵(きゅうりょう)は、南画(なんが)風(ふう)の描法(びょうほう)が感(かん)じられます。七里ガ浜(しちりがはま)を行(い)く参詣(さんけい)人(にん)の男女(だんじょ)は浮世絵(うきよえ)風(ふう)、やや人物(じんぶつ)と背景(はいけい)のバランスがくずれ、画面(がめん)の広(ひろ)さを十分(じゅうぶん)生(い)かしきれないところがあります。 落款(らっかん)がなく、伝(でん)喜多川(きたがわ)歌政(かせい)となっていますが、初代(しょだい)歌政(かせい)の作品(さくひん)というよりは二代(にだい)歌政(かせい)ではないかと考(かんが)えられます。描法(びょうほう)などの比較(ひかく)研究(けんきゅう)が必要(ひつよう)で、結論(けつろん)は今後(こんご)の研究(けんきゅう)に委(ゆだ)ねられます。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(七里ガ浜(しちりがはま)より見(み)た江(え)の島(しま)風景(ふうけい)図(ず))
板元(はんもと):加賀屋吉右衛門(かがやきちえもん)か萬屋(よろずや)吉兵衛(きちべえ) 裸(はだか)の海女(あま)の鮑(あわび)取(と)りを、豪華(ごうか)な着物(きもの)を着(き)た女性(じょせい)たちが見物(けんぶつ)する様子(ようす)が描(えが)かれていますが、これは実在(じつざい)の光景(こうけい)ではなく、見立絵(みたてえ)です。実際(じっさい)の江(え)の島(しま)では女(おんな)の海女(あま)は存在(そんざい)せず、男(おとこ)の海士(あま)が鮑(あわび)取(と)りを生業(なりわい)として行(い)っていました。この作品(さくひん)では、絵(え)の作意(さくい)として、男(おとこ)を女(おんな)に置(お)き換(か)えた変(か)えたのではないかと思(おも)われます。
江之島(えのしま)蚫(あわび)猟(とり)之(の)図(ず)