Fujisawa Net Museum

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平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)関次商店(せきじしょうてん)関野家(せきのけ))は旧東海道(きゅうとうかいどう)旧家(きゅうか)で、初代次右衛門(しょだいじえもん)は、(のち)にキッコーマン(株)の設立(せつりつ)(かか)わる千葉県(ちばけん)野田町(のだまち)(げん)野田市(のだし))の茂木家(もぎけ)亀甲萬(きっこうまん))にて修行(しゅぎょう)した(のち)明治(めいじ)3(ねん)(1870)に現在地(げんざいち)分家(ぶんけ)し、白米商(はくまいしょう)亀甲萬(きっこうまん)販売(はんばい)(およ)亀甲萬(きっこうまん)への相州小麦(そうしゅうこむぎ)仲買(なかがい)開始(かいし)しました。関次商店(せきじしょうてん)は、早期(そうき)創業(そうぎょう)した米穀(べいこく)肥料問屋(ひりょうとんや)のひとつでした。藤沢(ふじさわ)明治時代(めいじじだい)高座郡(こうざぐん)役所(やくしょ)登記所(とうきしょ)()かれたため、高座郡(こうざぐん)のみならず隣接(りんせつ)する鎌倉郡(かまくらぐん)三浦郡(みうらぐん)からも農民(のうみん)商人(しょうにん)往来(おうらい)(おお)く、さらに、八王子街道(はちおうじかいどう)(つう)じて、相模原(さがみはら)町田(まちだ)までを商圏(しょうけん)としました。このため、農村(のうそん)必要(ひつよう)とした肥料販売(ひりょうはんばい)米穀(べいこく)集荷(しゅうか)集中(しゅうちゅう)し、明治期(めいじき)には30(けん)以上(いじょう)米穀(べいこく)肥料商(ひりょうしょう)存在(そんざい)しました。                                     穀物蔵(こくもつぐら)規模(きぼ)桁行(けたゆき)5(けん)梁間(はりま)3(けん)で、屋根(やね)現在(げんざい)トタン()きですが、明治(めいじ)32(ねん)1(がつ)古写真(こしゃしん)には瓦葺(かわらぶき)穀物蔵(こくもつぐら)(うつ)っており、当初(とうしょ)瓦葺(かわらぶき)でした。外壁(がいへき)現在(げんざい)はトタンで(おお)われていますが、当初(とうしょ)漆喰(しっくい)(ぬり)でした。内部(ないぶ)は、(かべ)板張(いたば)りも上塗(うわぬ)りもせず、()(かべ)木舞組(こまいぐみ)をそのまま()せる形式(けいしき)で、壁土(かべつち)によって湿度(しつど)調節(ちょうせつ)する工夫(くふう)(つた)えられます。(ゆか)地面上(じめんじょう)(いた)()き、その(うえ)(ころ)ばし丸太(まるた)による(ひく)(ゆか)()みます。平家(ひらや)としては軒高(のきだか)(やく)5mと(たか)く、(かべ)木舞組(こまいぐみ)(あい)まって大空間(だいくうかん)形成(けいせい)します。(かさ)()小麦(こむぎ)(こめ)収納(しゅうのう)する穀物蔵(こくもつぐら)らしい特徴(とくちょう)といえます。()(くち)片引(かたび)きの塗戸(ぬりど)内側(うちがわ)板戸(いたど)()て、また上部(じょうぶ)には北側(きたがわ)に3箇所(かしょ)東側(ひがしがわ)に1箇所(かしょ)高窓(たかまど)(もう)ける。()(ぐち)(まえ)石敷(いしじ)きは、かつて道路(どうろ)から母屋(おもや)土間(どま)(とお)って荷物(にもつ)(はこ)んだトロッコの軌道(きどう)(あと)で、当時(とうじ)用法(ようほう)(つた)えています。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造平屋建(どぞうづくりひらやだて) 切妻造(きりづまづくり) トタン葺。建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治(めいじ)19(ねん)大正後期(たいしょうこうき)増築(ぞうちく)
建築面積(けんちくめんせき):100㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

関次(せきじ)商店(しょうてん) 穀物(こくもつ)(ぐら)

平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)肥料蔵(ひりょうぐら)は、梁間(はりま)3(けん)桁行(けたゆき)3(けん)で、穀物蔵(こくもつぐら)連続(れんぞく)して()てられている。東側(ひがしがわ)穀物蔵(こくもつぐら)漆喰壁(しっくいへき)外壁(がいへき)()え、穀物蔵(こくもつぐら)(はしら)()()える(かたち)増築(ぞうちく)したことを(しめ)している。石材(せきざい)は、穀物蔵(こくもつぐら)同様(どうよう)鎌倉石(かまくらいし)とみられ、入口(いりぐち)上部(じょうぶ)のキーストーンに「肥料庫(ひりょうこ)」、両脇(りょうわき)屋号(やごう)と「関次(せきじ)」の文字(もじ)(きざ)んでいます。(まど)西側(にしがわ)1カ(しょ)のみで、入口(いりぐち)鉄製(てつせい)観音開扉(かんのんびらきとびら)内側(うちがわ)格子戸(こうしど)板戸(いたど)()てています。穀物蔵(こくもつくら)(くら)べてやや(ざい)(ほそ)く、軒高(のきだか)も80㎝ほど(ひく)いものの大規模(だいきぼ)である(てん)()わりません。穀物蔵(こくもつぐら)(こと)なり(ゆか)()らずに(たた)土間(どま)とし、その(うえ)(いた)()いて商品(しょうひん)保管(ほかん)しました。肥料蔵(ひりょうくら)棟札(むなふだ)から担当(たんとう)大工(だいく)関野家(せきのけ)親戚筋(しんせきすじ)()たる関野芳五郎(せきのよしごろう)であることが判明(はんめい)しました。芳五郎(よしごろう)は、遊行寺(ゆぎょうじ)清浄光寺(しょうじょうこうじ))の門前(もんぜん)()み「大芳(だいよし)」の()()られていました。大工(だいく)関野家(せきのけ)は、江戸末期(えどまっき)創業(そうぎょう)したと(つた)えられ、現存(げんそん)する中雀門(ちゅうじゃくもん)藤沢市(ふじさわし)指定重要文化財(していじゅうようぶんかざい))や本堂(ほんどう)国登録有形文化財(くにとうろくゆうけいぶんかざい))など、遊行寺(ゆぎょうじ)建築(けんちく)代々(だいだい)担当(たんとう)しました。構造(こうぞう)形式(けいしき)木骨石造平屋建(もっこつせきぞうひらやだて) 切妻造(きりづまづくり) 桟瓦葺(さんかわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治(めいじ)40(ねん)大正後期(たいしょうこうき)増築(ぞうちく)建築面積(けんちくめんせき):50㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

関次(せきじ)商店(しょうてん) 肥料(ひりょう)(ぐら)

制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4(ねん)嘉永(かえい)5(ねん)(1844~1853)(ころ)
板元(はんもと):山田屋庄次郎(やまだやしょうじろう)(山庄(やましょう))

駕籠(かご)から()りたばかりの3(にん)美人(びじん)()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)ようとしているところでしょうか、美人(びじん)見立(みた)ての()(しま)(もうで)です。(みぎ)麻葉(あさば)模様(もよう)浴衣(ゆかた)女性(じょせい)(こし)のところで(ほそ)(おび)()めなおしています。中央(ちゅうおう)(ひだり)女性(じょせい)は「柏木(かしわぎ)」、「早蕨(さわらび)」、「藤裏葉(ふじのうらば)」、「蜻蛉(とんぼ)」などの源氏香(げんじこう)模様(もよう)()らした(そろ)いの浴衣(ゆかた)着物(きもの)(うえ)(かさ)()日傘(ひがさ)()っています。この(よう)普通(ふつう)着物(きもの)(うえ)浴衣(ゆかた)()るのは(たび)をする(とき)合羽(かっぱ)代用(だいよう)によく(もち)いたといわれます。
()(しま)(かん)する()錦絵(にしきえ)(えが)かれた女性(じょせい)はほとんどこの(よそお)いをしています。海辺(うみべ)(たび)となる()(しま)(もうで)には潮風(しおかぜ)(ふせ)意味(いみ)必需品(ひつじゅひん)であったものなのでしょう。中央(ちゅうおう)女性(じょせい)勝山髷(かつやままげ)左右(さゆう)女性(じょせい)島田髷(しまだまげ)にべっ(こう)(くし)笄簪(こうがい)(ぎん)平打(ひらうち)(かんざし)(かざ)っています。全体(ぜんたい)(いき)ないでたちは、いずれも芸事(げいごと)関係(かんけい)する女性(じょせい)たちと(かんが)えられます。なおこの版画(はんが)出版(しゅっぱん)されたのは、嘉永(かえい)4(ねん)辛亥(かのとい)(1851(ねん))の(いわや)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう)()わせたとも(かんが)えられます。この開帳(かいちょう)明記(めいき)した作品(さくひん)を、広重(ひろしげ)大判(おおばん)3(まい)(つづき)で3(くみ)(えが)いており、これもその(ひと)つです。

歌川広重 江の嶋弁才天開帳詣

()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)

制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6(ねん)安政(あんせい)3(ねん)(1834~1856)。
板元(はんもと):越平(こしひら)

越村屋平助(こしむらやへいすけ)から出版(しゅっぱん)された「六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)」は、玄魚(げんぎょ)の「大日本(だいにっぽん)六十余州(ろくじゅうよしゅう)名勝図会(めいしょうずえ)」の目録(もくろく)大判(おおばん)錦絵(にしきえ)(たて)1(まい)の70(まい)(いち)()みからなる大作(たいさく)で、嘉永(かえい)6(ねん)安政(あんせい)3(ねん)(1853-1856(ねん))にかけて刊行(かんこう)されています。

この六十余州(ろくじゅうよしゅう)代表(だいひょう)されるように弘化(こうか)元年(がんねん)から安政(あんせい)5(ねん)(1844-1858(ねん))まで、広重(ひろしげ)48(さい)から62(さい)(ぼっ)するまでの作品(さくひん)(おお)くは(たて)(ばん)で、(とく)晩年(ばんねん)にあたる安政(あんせい)()のシリーズ「五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ)」、「冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)(など)で、(よこ)(ばん)とはまた一味(ひとあじ)(ちが)効果(こうか)情趣(じょうしゅ)表現(ひょうげん)しようとしたあとがうかがわれます。(かれ)は「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)」の(ぞく)(かん)(ちゅう)(やまい)(たお)れ、安政(あんせい)5(ねん)9(がつ) 6()未明(みめい)62(さい)生涯(しょうがい)()じています。

辞世(じせい)は「車路(くるまじ)(ふで)(のこ)して(たび)(そら)西(にし)御国(おくに)(めい)ところを見舞(みまい)」とあり、死後(しご)もなお名所絵(めいしょえ)意欲(いよく)()やす風景(ふうけい)絵師(えし)広重(ひろしげ)らしい(うた)です。

歌川広重 六十余州名所図会 相模江之嶋岩屋ノロ

六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ) 相模(さがみ)()()(しま)岩屋(いわや)()(くち)



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