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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/手水舎(ちょうずや)は、明治(めいじ)13年(ねん)以降(いこう)に大銀杏(おおいちょう)の脇(わき)に建築(けんちく)されたものが、昭和(しょうわ)12年(ねん)、現在(げんざい)の位置(いち)に修復(しゅうふく)移築(いちく)されています。中(なか)の水盤(すいばん)は昭和(しょうわ)44年(ねん)(1969)オリンピック聖火台(せいかだい)を作成(さくせい)した鈴木文吾(すずきぶんご)氏(し)の手(て)によって復元(ふくげん)安置(あんち)されたものです。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造(もくぞう)、桟瓦葺(さんかわらぶき)、両(りょう)流(なが)れ造(づく)り、平入(ひらい)り。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):明治前期(めいじぜんき)。建築面積(けんちくめんせき):12.9㎡。所有者(しょゆうしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)
清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ)) 手水舎(ちょうずや)
地域(ちいき) 江(え)の島(しま)・鎌倉(かまくら)絵(え)はがきセット 商標(しょうひょう) 不明(ふめい) 発行(はっこう)元(もと)・製造元(せいぞうもと) 不明(ふめい) 年代(ねんだい) 昭和(しょうわ)10年代(ねんだい)
緑(みどり)の江(え)の島(しま) (江(え)の島(しま)名勝(めいしょう))稚児ヶ淵(ちごがふち)より富士(ふじ)を望(のぞ)む
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/遊行寺(ゆぎょうじ)の入(い)り口(ぐち)にある惣門(そうもん)は「大川火事(おおかわかじ)」で類焼(るいしょう)しますが、大正(たいしょう)15年(ねん)(1926)に冠木門(かぶきもん)として再建上棟(さいけんじょうとう)されています。土台(どだい)の大(おお)きな歪(ゆが)みは大正関東地震(たいしょうかんとうじしん)の名残(なごり)と言(い)われます。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造(もくぞう)、冠木門(かぶきもん)、銅板葺(どうばんぶき)、切妻造(きりづまづく)り。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):明治前期(めいじぜんき)。建築規模(けんちくきぼ):間口(まぐち)5.0m。所有者(しょゆうしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)
清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ)) 惣門(そうもん)
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/左右(さゆう)の石垣(いしべい)及(およ)び築地塀(ついじべい)は江戸中期(えどちゅうき)には成立(せいりつ)しています。大正関東地震(たいしょうかんとうじしん)において両翼(りょうよく)の築地塀(ついじべい)は倒壊(とうかい)し撤去(てっきょ)されているが左右(さゆう)の築地(ついじ)はそのまま使用(しよう)されています。構造(こうぞう)・形式(けいしき):石垣(いしがき)→石造(いしづくり)、布石空積(ふせきからづみ)。築地塀(ついじべい)→土塀(どべい)(敷瓦(しきがわら)と粘土(ねんど)の練(ね)り塀(へい))、表面(ひょうめん)漆喰(しっくい)仕上(しあ)げ、瓦葺(かわらぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):江戸末期(えどまっき)、大正(たいしょう)15年頃(ねんごろ)改修(かいしゅう)。建築規模(けんちくきぼ):石垣(いしがき)→総延長(そうえんちょう)52.9m、築地塀(ついじべい)→総延長(そうえんちょう)22.4m。所有者(しょゆうしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)
清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ)) 石垣(いしがき)及(およ)び築地塀(ついじべい)
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/関次商店(せきじしょうてん)(関野家(せきのけ))は旧東海道(きゅうとうかいどう)の旧家(きゅうか)で、初代次右衛門(しょだいじえもん)は、後(のち)にキッコーマン(株)の設立(せつりつ)に関(かか)わる千葉県(ちばけん)野田町(のだまち)(現(げん)野田市(のだし))の茂木家(もぎけ)(亀甲萬(きっこうまん))にて修行(しゅぎょう)した後(のち)、明治(めいじ)3年(ねん)(1870)に現在地(げんざいち)に分家(ぶんけ)し、白米商(はくまいしょう)と亀甲萬(きっこうまん)の販売(はんばい)及(およ)び亀甲萬(きっこうまん)への相州小麦(そうしゅうこむぎ)の仲買(なかがい)を開始(かいし)しました。関次商店(せきじしょうてん)は、早期(そうき)に創業(そうぎょう)した米穀(べいこく)・肥料問屋(ひりょうとんや)のひとつでした。藤沢(ふじさわ)は明治時代(めいじじだい)に高座郡(こうざぐん)役所(やくしょ)や登記所(とうきしょ)が置(お)かれたため、高座郡(こうざぐん)のみならず隣接(りんせつ)する鎌倉郡(かまくらぐん)・三浦郡(みうらぐん)からも農民(のうみん)・商人(しょうにん)の往来(おうらい)が多(おお)く、さらに、八王子街道(はちおうじかいどう)を通(つう)じて、相模原(さがみはら)や町田(まちだ)までを商圏(しょうけん)としました。このため、農村(のうそん)が必要(ひつよう)とした肥料販売(ひりょうはんばい)や米穀(べいこく)の集荷(しゅうか)が集中(しゅうちゅう)し、明治期(めいじき)には30軒(けん)以上(いじょう)の米穀(べいこく)・肥料商(ひりょうしょう)が存在(そんざい)しました。 穀物蔵(こくもつぐら)の規模(きぼ)は桁行(けたゆき)5間(けん)・梁間(はりま)3間(けん)で、屋根(やね)は現在(げんざい)トタン葺(ふ)きですが、明治(めいじ)32年(ねん)1月(がつ)の古写真(こしゃしん)には瓦葺(かわらぶき)の穀物蔵(こくもつぐら)が写(うつ)っており、当初(とうしょ)は瓦葺(かわらぶき)でした。外壁(がいへき)も現在(げんざい)はトタンで覆(おお)われていますが、当初(とうしょ)は漆喰(しっくい)塗(ぬり)でした。内部(ないぶ)は、壁(かべ)に板張(いたば)りも上塗(うわぬ)りもせず、塗(ぬ)り壁(かべ)の木舞組(こまいぐみ)をそのまま見(み)せる形式(けいしき)で、壁土(かべつち)によって湿度(しつど)を調節(ちょうせつ)する工夫(くふう)と伝(つた)えられます。床(ゆか)は地面上(じめんじょう)に板(いた)を敷(し)き、その上(うえ)に転(ころ)ばし丸太(まるた)による低(ひく)い床(ゆか)を組(く)みます。平家(ひらや)としては軒高(のきだか)が約(やく)5mと高(たか)く、壁(かべ)の木舞組(こまいぐみ)と相(あい)まって大空間(だいくうかん)を形成(けいせい)します。嵩(かさ)が張(は)る小麦(こむぎ)や米(こめ)を収納(しゅうのう)する穀物蔵(こくもつぐら)らしい特徴(とくちょう)といえます。入(い)り口(くち)は片引(かたび)きの塗戸(ぬりど)の内側(うちがわ)に板戸(いたど)を立(た)て、また上部(じょうぶ)には北側(きたがわ)に3箇所(かしょ)、東側(ひがしがわ)に1箇所(かしょ)高窓(たかまど)を設(もう)ける。入(い)り口(ぐち)前(まえ)の石敷(いしじ)きは、かつて道路(どうろ)から母屋(おもや)の土間(どま)を通(とお)って荷物(にもつ)を運(はこ)んだトロッコの軌道(きどう)の跡(あと)で、当時(とうじ)の用法(ようほう)を伝(つた)えています。構造(こうぞう)・形式(けいしき):土蔵造平屋建(どぞうづくりひらやだて) 切妻造(きりづまづくり) トタン葺。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):明治(めいじ)19年(ねん)、大正後期(たいしょうこうき)増築(ぞうちく)。建築面積(けんちくめんせき):100㎡。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
関次(せきじ)商店(しょうてん) 穀物(こくもつ)蔵(ぐら)
平成(へいせい)28年(ねん)(2016)2月(がつ)25日(にち)登録(とうろく)/肥料蔵(ひりょうぐら)は、梁間(はりま)3間(けん)・桁行(けたゆき)3間(けん)で、穀物蔵(こくもつぐら)と連続(れんぞく)して建(た)てられている。東側(ひがしがわ)は穀物蔵(こくもつぐら)の漆喰壁(しっくいへき)の外壁(がいへき)が見(み)え、穀物蔵(こくもつぐら)に柱(はしら)を立(た)て添(そ)える形(かたち)で増築(ぞうちく)したことを示(しめ)している。石材(せきざい)は、穀物蔵(こくもつぐら)と同様(どうよう)鎌倉石(かまくらいし)とみられ、入口(いりぐち)上部(じょうぶ)のキーストーンに「肥料庫(ひりょうこ)」、両脇(りょうわき)に屋号(やごう)と「関次(せきじ)」の文字(もじ)を刻(きざ)んでいます。窓(まど)は西側(にしがわ)1カ所(しょ)のみで、入口(いりぐち)は鉄製(てつせい)の観音開扉(かんのんびらきとびら)の内側(うちがわ)に格子戸(こうしど)と板戸(いたど)を立(た)てています。穀物蔵(こくもつくら)に較(くら)べてやや材(ざい)が細(ほそ)く、軒高(のきだか)も80㎝ほど低(ひく)いものの大規模(だいきぼ)である点(てん)は変(か)わりません。穀物蔵(こくもつぐら)と異(こと)なり床(ゆか)は張(は)らずに叩(たた)き土間(どま)とし、その上(うえ)に板(いた)を敷(し)いて商品(しょうひん)を保管(ほかん)しました。肥料蔵(ひりょうくら)の棟札(むなふだ)から担当(たんとう)大工(だいく)が関野家(せきのけ)の親戚筋(しんせきすじ)に当(あ)たる関野芳五郎(せきのよしごろう)であることが判明(はんめい)しました。芳五郎(よしごろう)は、遊行寺(ゆぎょうじ)(清浄光寺(しょうじょうこうじ))の門前(もんぜん)に住(す)み「大芳(だいよし)」の名(な)で知(し)られていました。大工(だいく)の関野家(せきのけ)は、江戸末期(えどまっき)に創業(そうぎょう)したと伝(つた)えられ、現存(げんそん)する中雀門(ちゅうじゃくもん)(藤沢市(ふじさわし)指定重要文化財(していじゅうようぶんかざい))や本堂(ほんどう)(国登録有形文化財(くにとうろくゆうけいぶんかざい))など、遊行寺(ゆぎょうじ)の建築(けんちく)を代々(だいだい)担当(たんとう)しました。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木骨石造平屋建(もっこつせきぞうひらやだて) 切妻造(きりづまづくり) 桟瓦葺(さんかわらぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):明治(めいじ)40年(ねん)、大正後期(たいしょうこうき)増築(ぞうちく)。建築面積(けんちくめんせき):50㎡。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
関次(せきじ)商店(しょうてん) 肥料(ひりょう)蔵(ぐら)
制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1844~1853)頃(ころ)。 板元(はんもと):山田屋庄次郎(やまだやしょうじろう)(山庄(やましょう)) 駕籠(かご)から降(お)りたばかりの3人(にん)の美人(びじん)が江(え)の島(しま)弁才天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)に詣(もうで)ようとしているところでしょうか、美人(びじん)見立(みた)ての江(え)の島(しま)詣(もうで)です。右(みぎ)の麻葉(あさば)模様(もよう)の浴衣(ゆかた)の女性(じょせい)は腰(こし)のところで細(ほそ)帯(おび)を締(し)めなおしています。中央(ちゅうおう)と左(ひだり)の女性(じょせい)は「柏木(かしわぎ)」、「早蕨(さわらび)」、「藤裏葉(ふじのうらば)」、「蜻蛉(とんぼ)」などの源氏香(げんじこう)の模様(もよう)を散(ち)らした揃(そろ)いの浴衣(ゆかた)を着物(きもの)の上(うえ)に重(かさ)ね着(き)し日傘(ひがさ)を持(も)っています。この様(よう)に普通(ふつう)の着物(きもの)の上(うえ)に浴衣(ゆかた)を着(き)るのは旅(たび)をする時(とき)の合羽(かっぱ)の代用(だいよう)によく用(もち)いたといわれます。 江(え)の島(しま)に関(かん)する他(た)の錦絵(にしきえ)に描(えが)かれた女性(じょせい)はほとんどこの装(よそお)いをしています。海辺(うみべ)の旅(たび)となる江(え)の島(しま)詣(もうで)には潮風(しおかぜ)を防(ふせ)ぐ意味(いみ)で必需品(ひつじゅひん)であったものなのでしょう。中央(ちゅうおう)の女性(じょせい)は勝山髷(かつやままげ)、左右(さゆう)の女性(じょせい)は島田髷(しまだまげ)にべっ甲(こう)の櫛(くし)、笄簪(こうがい)と銀(ぎん)の平打(ひらうち)の簪(かんざし)を飾(かざ)っています。全体(ぜんたい)に粋(いき)ないでたちは、いずれも芸事(げいごと)に関係(かんけい)する女性(じょせい)たちと考(かんが)えられます。なおこの版画(はんが)が出版(しゅっぱん)されたのは、嘉永(かえい)4年(ねん)辛亥(かのとい)(1851年(ねん))の窟(いわや)弁財天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)に合(あ)わせたとも考(かんが)えられます。この開帳(かいちょう)を明記(めいき)した作品(さくひん)を、広重(ひろしげ)は大判(おおばん)3枚(まい)続(つづき)で3組(くみ)描(えが)いており、これもその一(ひと)つです。
江(え)の嶋(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)詣(もうで)
制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ねん)~安政(あんせい)3年(ねん)(1834~1856)。 板元(はんもと):越平(こしひら) 越村屋平助(こしむらやへいすけ)から出版(しゅっぱん)された「六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)」は、玄魚(げんぎょ)の「大日本(だいにっぽん)六十余州(ろくじゅうよしゅう)名勝図会(めいしょうずえ)」の目録(もくろく)で大判(おおばん)錦絵(にしきえ)縦(たて)1枚(まい)の70枚(まい)一(いち)組(く)みからなる大作(たいさく)で、嘉永(かえい)6年(ねん)~安政(あんせい)3年(ねん)(1853-1856年(ねん))にかけて刊行(かんこう)されています。 この六十余州(ろくじゅうよしゅう)に代表(だいひょう)されるように弘化(こうか)元年(がんねん)から安政(あんせい)5年(ねん)(1844-1858年(ねん))まで、広重(ひろしげ)48才(さい)から62才(さい)で没(ぼっ)するまでの作品(さくひん)の多(おお)くは縦(たて)版(ばん)で、特(とく)に晩年(ばんねん)にあたる安政(あんせい)期(き)のシリーズ「五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ)」、「冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)」等(など)で、横(よこ)板(ばん)とはまた一味(ひとあじ)違(ちが)う効果(こうか)と情趣(じょうしゅ)を表現(ひょうげん)しようとしたあとがうかがわれます。彼(かれ)は「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)」の続(ぞく)刊(かん)中(ちゅう)に病(やまい)に倒(たお)れ、安政(あんせい)5年(ねん)9月(がつ) 6日(か)未明(みめい)62才(さい)の生涯(しょうがい)を閉(と)じています。 辞世(じせい)は「車路(くるまじ)に筆(ふで)を残(のこ)して旅(たび)の空(そら)西(にし)の御国(おくに)の名(めい)ところを見舞(みまい)」とあり、死後(しご)もなお名所絵(めいしょえ)に意欲(いよく)を燃(も)やす風景(ふうけい)絵師(えし)広重(ひろしげ)らしい歌(うた)です。
六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ) 相模(さがみ)江(え)之(の)嶋(しま)岩屋(いわや)ノ(の)口(くち)