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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 初代(しょだい)広重(ひろしげ)による行書(ぎょうしょ)東海道(とうかいどう)の浜松(はままつ)図(ず)とよく似(に)た構図(こうず)で描(えが)かれています。松(まつ)を鑑賞(かんしょう)する人物(じんぶつ)の一人(ひとり)は、洋傘(ようがさ)を持(も)っています。ざざんざの松(まつ)とは、海岸(かいがん)近(ちか)くの松(まつ)のことを言(い)い、昔(むかし)、将軍(しょうぐん)足利(あしかが)義政(よしまさ)が、この松(まつ)の下(した)で宴(うたげ)を開(ひら)いて、「浜松(はままつ)の音(おと)はざざんさ」とうたったことから、この名(な)がついたと言(い)われています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん)十二(じゅうに) 名所(めいしょ)ざざんざの松(まつ) 浜松(はままつ) 舞坂(まいさか)迄(まで)三(さん)里(り)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) その急流(きゅうりゅう)さから「暴(あば)れ天竜(てんりゅう)」として知(し)られ、舟渡(ふなわた)しが行(おこな)われていた天竜川(てんりゅうがわ)にも橋(はし)が架(か)かりました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん)十一(じゅういち) 天龍川(てんりゅうがわ)仮橋(かりばし) 見附(みつけ) はま松(しょう)迄(まで)四(よん)里(り)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 画面(がめん)右端(みぎはし)に描(えが)かれた傍示(ぼうじ)杭(くい)(境界(きょうかい)のしるしに立(た)てられた標柱(ひょうちゅう))には、「東(ひがし) 袋井(ふくろい)駅(えき)、ここより可睡斎(かすいさい)三(さん)尺(じゃく)坊(ぼう)迄(まで)十八(じゅうはっ)町(ちょう)」と書(か)かれています。そのそばでは、人力車(じんりきしゃ)が客待(きゃくま)ちをしています。可睡斎(かすいさい)とは、明治(めいじ)6年(ねん)(1873)に廃(はい)された秋葉(あきは)寺(てら)から本尊(ほんぞん)の三(やま)尺(じゃく)坊(ぼう)大(だい)権現(ごんげん)が移(うつ)された曹洞宗(そうとうしゅう)の名刹(めいさつ)です。三(さん)尺(じゃく)坊(ぼう)大(だい)権現(ごんげん)は、火除(ひよ)けの神(かみ)として広(ひろ)く信仰(しんこう)を集(あつ)めており、名所(めいしょ)のひとつになっています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん)十(じゅう) 繩手(なわて)道(みち) 袋井(ふくろい) 見附(みつけ)迄(まで)一(いち)り廿(にじっ)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 金谷(かなや)から日坂(にっさか)へ向(む)かう途(と)中(なか)にある峠(とうげ)、小夜(さよ)の中山(なかやま)は、急勾配(きゅうこうばい)の坂(さか)が続(つづ)く東海道(とうかいどう)の難所(なんしょ)として知(し)られています。茶屋(ちゃや)の前(まえ)では、妊婦(にんぷ)殺(ごろ)しの伝説(でんせつ)で有名(ゆうめい)な夜泣(よな)き岩(いわ)を旅人(たびびと)たちがかこんで眺(なが)めています。江戸時代(えどじだい)とかわらぬ姿(すがた)の旅人(たびびと)たちにまじって、坂(さか)を登(のぼ)る洋装(ようそう)の男性(だんせい)がさりげなく描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 二十(にじゅう)八(はち) 小夜(さよ)の中山(なかやま) 日坂(にっさか) かけ川(がわ)迄(まで)一(いち)り二十(にじゅう)五(ご)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 大井川(おおいがわ)の右岸(うがん)(京側(きょうがわ))の金谷坂(かなやざか)の上(うえ)から富士山(ふじさん)を望(のぞ)む図(ず)です。 江戸時代(えどじだい)は徒歩渡(かちわた)しが行(おこな)われていた大井川(おおいがわ)ですが、明治(めいじ)3年(ねん)(1870年(ねん))に通船(つうせん)が許可(きょか)されました。画中(がちゅう)にも川(かわ)を渡(わた)る舟(ふね)が見(み)えます。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 二十(にじゅう)七(なな) 坂道(さかみち)より大井川(おおいがわ) 金谷(かなや) 日坂(にっさか)迄(まで)一(いち)り二十(にじゅう)九(きゅう)町(まち)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 東海道一(とうかいどういち)の川越(かわごえ)の難所(なんしょ)であった大井川(おおいがわ)にも、架橋(かきょう)の動(うご)きがでてきます。 この画(が)では、仮橋(かりばし)を渡(わた)る旅人(たびびと)の姿(すがた)が描(えが)かれています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 二十(にじゅう)六(ろく) 大井川(おおいがわ)駿(しゅん)岸(がん) 島田(しまだ) かなや迄(まで)一里(いちり)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 藤枝宿(ふじえだしゅく)近(ちか)くの瀬戸川(せとがわ)にも橋(はし)が架(か)けられました。ガス灯(とう)に灯(あかり)がともっている様子(ようす)も見(み)えます。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 二十(にじゅう)五(ご) 瀬戸(せと)川橋(がわばし) 藤枝(ふじえだ) 島田(しまだ)迄(まで)二(に)り九(きゅう)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 二十(にじゅう)四(よん) 宇津(うつ)の山下(やました) 岡部(おかべ) 藤枝(ふじえだ)迄(まで)一里(いちり)二十(にじゅう)九(きゅう)丁(ちょう)