Fujisawa Net Museum

資料一覧

平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)滴水庵(てきすいあん)施主(せしゅ)である高橋繁(たかはししげる)()表具師(ひょうぐし)で、鵠沼(くげぬま)別荘(べっそう)顧客(こきゃく)(おお)かったことから鵠沼海岸(くげぬまかいがん)支店(してん)月山堂(つきやまどう)」を開業(かいぎょう)滴水庵(てきすいあん)(しげる)()趣味(しゅみ)(いとな)んだ別荘(べっそう)でした。主屋(しゅおく)建物(たてもの)三井財閥(みついざいばつ)益田孝(ますだたかし)鈍翁(どんおう))が鵠沼(くげぬま)別荘(べっそう)()てたもので、当地(とうち)()った(とき)は「紫明庵(しめいあん)」と(ごう)していました。文献(ぶんけん)によると、山縣有朋(やまがたありとも)桂太郎(かつらたろう)などが鈍翁(どんおう)招待(しょうたい)され(おとず)れています。実業家(じつぎょうか)高橋義雄(たかはしよしお)箒庵(そうあん))も鵠沼別荘(くげぬまべっそう)(おとず)れた(とき)のことを著書(ちょしょ)(しる)しています。鈍翁(どんおう)鵠沼別荘(くげぬまべっそう)著名(ちょめい)小田原(おだわら)掃雲台(そううんだい)よりも(はや)(つく)られています。鈍翁(どんおう)没後(ぼつご)土地(とち)売却(ばいきゃく)される(さい)に、王子製紙社長(おうじせいししゃちょう)高嶋菊次郎(たかしまきくじろう)()仲介(ちゅうかい)により建物(たてもの)(ゆず)()け、その()10(ねん)(ちか)解体(かいたい)した(ざい)状態(じょうたい)保管(ほかん)され、昭和(しょうわ)35年頃(ねんごろ)現在地(げんざいち)移築(いちく)されました。移築(いちく)仲介(ちゅうかい)をした高嶋菊次郎(たかしまきくじろう)()により「滴水庵(てきすいあん)」と命名(めいめい)されました。全体(ぜんたい)(ざい)造作(ぞうさく)()数寄屋建築(すきやけんちく)であり、湧水(わきみず)土地(とち)起伏(きふく)利用(りよう)した庭園(ていえん)一体(いったい)となった計画(けいかく)(しつ)(たか)く、日本最初期(にほんさいしょき)海浜分譲別荘地(かいひんぶんじょうべっそうち)である鵠沼別荘地(くげぬまべっそうち)開発初期(かいはつしょき)遺構(いこう)としても重要(じゅうよう)意味(いみ)()ちます。                                                  主屋(おもや)は、宝形造(ほうぎょうづくり)(みなみ)(ひがし)西(にし)三方(さんぽう)奥行(おくゆ)き1()銅板葺(どうばんぶき)(ひろ)(ひさし)(めぐ)らし、北側(きたがわ)玄関(げんかん)東側(ひがしがわ)茶室(ちゃしつ)水屋(みずや)便所(べんじょ)(とう)()()しています。外壁(がいへき)土壁(つちかべ)杉板張(すぎいたば)りで、床高(ゆかだか)軒高(のきだか)(ひく)く、安定(あんてい)したプロポーションを()せています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建(もくぞうひらやだて) 瓦葺一部銅板葺(かわらぶきいちぶどうばんぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治後期(めいじこうき)建築(けんちく)昭和(しょうわ)23年頃(ねんごろ)解体(かいたい)昭和(しょうわ)35(ねん)移築(いちく)建築面積(けんちくめんせき):77㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

月山(つきやま)(どう)滴水(てきすい)(あん) (しゅ)(おく)

平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)待合(まちあい)主屋(おもや)南東(なんとう)西面(せいめん)して()ちます。間口(まぐち)1.8m(6(しゃく))・奥行(おくゆき)1.2m(4(しゃく))、屋根(やね)銅板葺(どうばんぶき)切妻造(きりづまづくり)ですが、棟位置(むねいち)中心(ちゅうしん)からずらして前面(ぜんめん)のみ(なが)くした招き屋根(まねきやね)です。特徴(とくちょう)として、変木(へんぼく)多用(たよう)()げられ、丸太(まるた)やなぐりのゆがみ(ばしら)(もち)い、棟木(むなぎ)母屋(おもや)垂木(たるき)(とう)(すべ)丸太(まるた)です。(とく)に、正面(しょうめん)北隅(きたすみ)華奢(きゃしゃ)辛夷(こぶし)(えだ)つき(ざい)で、奇想(きそう)()みます。左右対称(さゆうたいしょう)()けながら(ふか)(のき)でうまくバランスを()っており、庭園(ていえん)(すぐ)れた景観要素(けいかんようそ)となっています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建(もくぞうひらやだて) 銅板葺(どうばんぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)35年頃(ねんごろ)移築(いちく)所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

月山(つきやま)(どう)滴水(てきすい)(あん) 待合(まちあい)

平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)大門(おおもん)敷地(しきち)北東(ほくとう)前面道路(ぜんめんどうろ)から()()んだ石畳(いしだたみ)(さき)東面(とうめん)して()ちます。間口(まぐち)は4.55m、奥行(おくゆき)1.65mで、屋根(やね)桟瓦(さんがわら)一部(いちぶ)銅板葺(どうばんぶき)とする切妻造(きりづまづくり)です。()(ぐち)(はば)1.9m(6.4(しゃく))の引き分け戸(ひきわけど)とし、右手(みぎて)潜り戸(くぐりど)(はい)ると供待(ともま)ちがあり、塗籠格子(ぬりごめごうし)()けます。(かべ)土壁(つちかべ)で、正面(しょうめん)(こし)になぐり(きざ)みの栗材(くりざい)段違(だんちが)いに()(てん)(くぐ)()にひしゃぎ(たけ)(もち)いる(てん)数寄屋風(すきやふう)です。数寄屋造(すきやづくり)主屋(しゅおく)正門(せいもん)としてふさわしい、瀟洒(しょうしゃ)(ひん)()(かま)えを()せています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう) 切妻造(きりづまづくり) 一部銅板葺(いちぶどうばんかわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)35(ねん)移築(いちく)所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

月山(つきやま)(どう)滴水(てきすい)(あん) 大門(おおもん)

平成(へいせい)28(ねん)(2016)2(がつ)25(にち)登録(とうろく)/ 東海道(とうかいどう)藤沢宿(ふじさわしゅく)名刹(めいさつ)として(した)しまれる時宗総本山(じしゅうそうほんざん)藤澤山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)通称(つうしょう)遊行寺(ゆぎょうじ))は、正中(せいちゅう)2(ねん)(1325)に遊行四代(ゆぎょうよんだい)呑海上人(どんかいしょうにん)が、実兄(じっけい)であった相模国俣野荘地頭(さがみのくにまたのしょうじとう)俣野五郎景平(またのごろうかげひら)帰依(きえ)()けて当地(とうち)建立(こんりゅう)したのが(はじ)まりです。江戸後期(えどこうき)境内図(けいだいず)では七堂伽藍(しちどうがらん)(ととの)った姿(すがた)()られますが、明治(めいじ)13(ねん)(1880)11(がつ)()きた「大川火事(おおかわかじ)」にて本堂(ほんどう)(ふく)めた諸堂(しょどう)焼失(しょうしつ)遊行寺(ゆぎょうじ)再建(さいけん)(いそ)明治(めいじ)27(ねん)(1894)に本堂(ほんどう)建立(こんりゅう)されます。しかし大正(たいしょう)12(ねん)(1923)の大正関東地震(たいしょうかんとうじしん)山内諸堂(さんないしょどう)倒壊(とうかい)させたのです。その()耐震化(たいしんか)(ふく)めて諸堂(しょどう)再建(さいけん)(はじ)まります。
 現在(げんざい)本堂(ほんどう)再建(さいけん)位置(いち)ですが、旧御廟(きゅうごびょう)場所(ばしょ)まで後退(こうたい)させ、正面(しょうめん)(ひろ)空間(くうかん)確保(かくほ)倒壊(とうかい)した旧本堂(きゅうほんどう)部材(ぶざい)彫刻(ちょうこく)再利用(さいりよう)しつつ、昭和(しょうわ)8(ねん)(1933)6(がつ)22(にち)関野金次郎(せきのきんじろう)頭領(とうりょう)として再建工事(さいけんこうじ)着手(ちゃくしゅ)昭和(しょうわ)10(ねん)(1935)5月10日(がつとうか)上棟(じょうとう)昭和(しょうわ)12(ねん)(1937)5月3日(がつみっか)御本尊(ごほんぞん)本堂(ほんどう)(はい)り、竣工(しゅんこう)落成(らくせい)(いた)ります。内部(ないぶ)中央(ちゅうおう)阿弥陀坐像(あみだざぞう)(はい)し、当麻曼荼羅(たいままんだら)(えが)かれる浄土(じょうど)()して荘厳(そうごん)関東随一(かんとうずいいち)とも()われる
木造建築物(もくぞうけんちくぶつ)復活(ふっかつ)したのです。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建(もくぞうひらやだて)瓦銅板板葺(かわらどうばんいたぶき)本瓦様(ほんがわらさま))、流れ向拝付入母屋造(ながれこうはいづきいりもやづく)り。建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)12(ねん)建築面積(けんちくめんせき):841.4㎡。所有者(しょゆうしゃ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)

清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ)) 本堂(ほんどう)



Page Top