Fujisawa Net Museum

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平成(へいせい)25(ねん)(2013)12月24日(がつにじゅうよっか)登録(とうろく)桔梗屋(ききょうや)は、旧東海道藤沢宿(きゅうとうかいどうふじさわしゅく)(ちゃ)紙問屋(かみどんや)(いとな)んでいた旧家(きゅうか)です。店蔵(みせぐら)は、2(かい)(のき)出桁(だしげた)で、さらに3(だん)軒蛇腹(のきじゃばら)(めぐ)らし、1(かい)(のき)()()めています。軒廻(のきまわ)りと外壁(がいへき)(すべ)黒漆喰(くろしっくい)仕上(しあ)げで、2階正面(かいしょうめん)東側(ひがしがわ)箇所(かしょ)重厚(じゅうこう)観音開窓(かんのんびらきまど)(もう)けています。一方(いっぽう)1(かい)は、現在(げんざい)中央(ちゅうおう)にガラス()()て、両脇(りょうわき)1(けん)(かべ)としますが、これは平成元年(へいせいがんねん)改造(かいぞう)です。古写真(こしゃしん)によれば(もと)()(はな)ちで、火災時(かさいじ)のみ塗戸(ぬりど)()()んだようで、鴨居(かもい)(みぞ)(のこ)ります。旧藤沢宿(きゅうふじさわしゅく)に15(むね)ほど店蔵(みせぐら)存在(そんざい)する時期(じき)もありましたが、外観(がいかん)内部(ないぶ)ともほぼ当初(とうしょ)姿(すがた)(のこ)したまま、現存(げんそん)するのは桔梗屋(ききょうや)のみで、震災前(しんさいまえ)様相(ようそう)(つた)える貴重(きちょう)遺構(いこう)といえます。また意匠的(いしょうてき)にも、川越(かわごえ)栃木(とちぎ)(とう)にみる江戸型(えどがた)店蔵(みせぐら)典型(てんけい)といえ、(まど)扉廻(とびらまわ)りの造作(ぞうさく)職人(しょくにん)(すぐ)れた技量(ぎりょう)(うかが)うことができます。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造(どぞうづくり)2階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)桟瓦葺(さんかわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治(めいじ)44(ねん)大工(だいく)細野弥太郎(ほそのよたろう)所有者(しょゆうしゃ)藤沢市(ふじさわし)

桔梗屋(ききょうや) (みせ)(ぐら)

平成(へいせい)25(ねん)(2013)12月24日(がつにじゅうよっか)登録(とうろく)主屋(おもや)店蔵(みせぐら)連続(れんぞく)して()ち、1(かい)に8(じょう)3(しつ)2階(にかい)洋間(ようま)2(しつ)和室(わしつ)2(しつ)一列(いちれつ)(はい)し、西側(にしがわ)台所(だいどころ)浴室(よくしつ)()()します。このうち1(かい)台所(だいどころ)浴室(よくしつ)と2(かい)洋間(ようま)2(しつ)関東大震災(かんとうだいしんさい)()増築(ぞうちく)です。1(かい)店蔵(みせぐら)から(もっと)(ちか)いゲンカンは現在(げんざい)洋間(ようま)ですが、(もと)和室(わしつ)(およ)土間(どま)で、常連客(じょうれんきゃく)はここで商談(しょうだん)をしたといいます。またオクノザシキは(ゆか)違棚(ちがいだな)平書院(ひらしょいん)(そな)えた(かく)(たか)(つく)りです。床框(とこがまち)には黒柿(くろがき)床板(とこいた)には(けやき)の1枚板(まいいた)(もち)い、付書院(つけしょいん)欄間(らんま)釣竿(つりざお)魚籠(びく)()かし()りの意匠(いしょう)(すぐ)れています。関東大震災(かんとうだいしんさい)()昭和(しょうわ)10(ねん)改造(かいぞう)()けているものの、店蔵(みせぐら)同時(どうじ)建設(けんせつ)されたものであり、1(かい)(みなみ)()部分(ぶぶん)当初(とうしょ)平面(へいめん)意匠(いしょう)(つた)えています。店舗(てんぽ)のみ土蔵造(どぞうづくり)とし、住居部分(じゅうきょぶぶん)別棟(べっとう)とする構成(こうせい)は、川越(かわごえ)栃木(とちぎ)店蔵(みせぐら)共通(きょうつう)し、家族(かぞく)出入(でい)りのための外通路(そとつうろ)()(てん)同様(どうよう)です。店蔵(みせぐら)主屋(しゅおく)(そろ)うことで、生活部分(せいかつぶぶん)まで(ふく)めた用法(ようほう)(うかが)うことができます。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう)2階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)、トタン葺。建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治(めいじ)44(ねん)昭和初期(しょうわしょき)増築(ぞうちく)所有者(しょゆうしゃ)藤沢市(ふじさわし)

桔梗屋(ききょうや) (しゅ)(おく)

平成(へいせい)25(ねん)(2013)12月24日(がつにじゅうよっか)登録(とうろく)文庫蔵(ぶんこぐら)(のき)を2段鉢巻(だんはちまき)とし、外壁(がいへき)(こし)海鼠壁(なまこかべ)で、開口部(かいこうぶ)(みなみ)(きた)妻側(つまがわ)出入口(でいりぐち)東側(ひがしがわ)に2箇所(かしょ)(もう)け、いずれも観音開(かんのんびら)きの塗戸(めいど)(そな)えます。小屋(こや)(のぼ)(ばり)で、中央間(ちゅうおうま)のみ和小屋組(わごやぐみ)としています。旧藤沢宿(きゅうふじさわしゅく)土蔵(どぞう)をみると、関次商店穀物蔵(せきじしょうてんこくもつぐら)旧鎌田家石蔵(きゅうかまたけいしぐら)などいずれも和小屋(わごや)で、(のぼ)(ばり)現存例(げんそんれい)はこの桔梗屋文庫蔵(ききょうやぶんこぐら)のみです。当地(とうち)近世(きんせい)(さかのぼ)貴重(きちょう)(れい)で、店蔵(みせぐら)とともに東海道(とうかいどう)旧宿場的(きゅうしゅくばてき)雰囲気(ふんいき)(つた)えます。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造(どぞうづくり)3階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)桟瓦葺(さんかわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)文久元年(ぶんきゅうがんねん)大正(たいしょう)14(ねん)改修(かいしゅう)所有者(しょゆうしゃ)藤沢市(ふじさわし)

桔梗屋(ききょうや) 文庫(ぶんこ)(ぐら)

平成(へいせい)25(ねん)(2013)12月24日(がつにじゅうよっか)登録(とうろく)三觜家(みつはしけ)家祖(かそ)室町時代前期(むろまちじだいぜんき)まで(さかのぼ)旧家(きゅうか)です。代々八郎右衛門(だいだいはちろうえもん)襲名(しゅうめい)し、江戸時代(えどじだい)には羽鳥村(はとりむら)名主(なぬし)(つと)めました。13代八郎右衛門(だいさちろうえもん)江戸(えど)から小笠原東陽(おがさわらとうよう)(まね)いて郷学校(ごうがっこう)(ひら)きました。明治(めいじ)5(ねん)8(がつ)学制(がくせい)()かれ小学校(しょうがっこう)位置(いち)づけられると「耕余学舎(こうよがくしゃ)」と(しょう)されました。これを前身(ぜんしん)に、東陽(とうよう)明治(めいじ)10(ねん)三觜家(みつはしけ)(とう)助力(じょりょく)により、私立(しりつ)耕余塾(こうよじゅく)」を新築(しんちく)しました。耕余塾(こうよじゅく)からは政治(せいじ)実業(じつぎょう)教育(きょういく)各界(かくかい)(おお)くの人材(じんざい)輩出(はいしゅつ)しました。元内閣総理大臣(もとないかくそうりだいじん)吉田茂(よしだしげる)同塾(どうじゅく)卒業生(そつぎょうせい)です。                                          主屋(おもや)には1(しゃく)6寸角(すんかく)大黒柱(だいこくばしら)や1(しゃく)1寸格(すんかく)脇大黒柱(わきだいこくばしら)などの良材(りょうざい)(はしら)差物(さしもの)堅牢(けんろう)()み、また(ふすま)透彫欄間(すかしぼりらんま)釘隠金具(くぎかくしかなぐ)(とう)造作(ぞうさ)入念(にゅうねん)で、格調高(かくちょうたか)室内意匠(しつないいしょう)をもっています。また、2(かい)(ゆか)違棚(ちがいだな)付書院(つけしょいん)(そな)えた座敷(ざしき)がある(てん)特徴的(とくちょうてき)です。1(かい)(わき)大黒柱(だいこくばしら)が2(かい)()えて(むね)まで(たっ)する通し柱(とおしばしら)であること、1(かい)意匠(いしょう)共通(きょうつう)することからみて、増築(ぞうちく)ではなく、創建当初(そうけんとうしょ)からのものであるとわかります。一般(いっぱん)民家(みんか)平屋(ひらや)圧倒的(あっとうてき)(おお)く、明治期以前(めいじきいぜん)の2階建(かいだ)ての民家(みんか)として指定(してい)登録(とうろく)されている住宅(じゅうたく)であっても、(おお)くが2(かい)養蚕(ようさん)作業(さぎょう)(よう)空間(くうかん)でした。居住空間(きょじゅうくうかん)として2(かい)(つく)られた、(きわ)めて早期(そうき)貴重(きちょう)(れい)です。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造(もくぞう)2(かい)(けん)切妻造(きりづまづくり)桟瓦葺(さんかわらぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治(めいじ)11(ねん)昭和前期(しょうわぜんき)改修(かいしゅう)建築面積(けんちくめんせき) :143.3㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

旧三觜八郎右衛門家住宅(きゅうみつはしはちろうえもんけじゅうたく) (しゅ)(おく)

平成(へいせい)26(ねん)(2014)10月7日(がつなのか)登録(とうろく)/この住宅(じゅうたく)(あるじ)であった林達夫(はやしたつお)は、平凡社(へいぼんしゃ)世界大百科事典(せかいだいひゃっかじてん)』の編集長(へんしゅうちょう)なども(つと)めた著名(ちょめい)評論家(ひょうろんか)思想家(しそうか)で、鵠沼(くげぬま)代表(だいひょう)する文化人(ぶんかじん)です。また、長男(ちょうなん)林巳奈夫(はやしみなお)も、京都大学教授(きょうとだいがくきょうじゅ)などを(つと)めた日本(にほん)における古代中国青銅器研究(こだいちゅうごくせいどうきけんきゅう)第一人者(だいいちにんしゃ)で、晩年(ばんねん)はこの住宅(じゅうたく)()ごしました。              建物(たてもの)林達夫(はやしたつお)藤沢市内(ふじさわしない)六会(むつあい)古民家(こみんか)購入(こうにゅう)したのち、日本古民家(にほんこみんか)構成(こうせい)古材(こざい)風格(ふうかく)()かしつつ「古英国風田舎家(こえいこくふういなかや)」に(つく)()げたものです。内部(ないぶ)古民家(こみんか)(ふと)(はり)などの部材(ぶざい)(のこ)しつつ、随所(ずいしょ)にイギリス(ふう)意匠(いしょう)(ほどこ)されており、外観(がいかん)は、急勾配(きゅうこうばい)切妻屋根(きりづまやね)とハーフディンバー((はしら)(はり)(すじ)かいなど軸組(じくぐ)みとなる部分(ぶぶん)外観(がいかん)(あらわ)した建築技法(けんちくぎほう))の外壁(がいへき)特徴(とくちょう)となっています。構造(こうぞう)形式(けいしき)木造平屋建一部(もくぞうひらやいちぶ)階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)和小屋(わごや)銅板一文字葺一部フランス瓦葺(どうばんいちもんじぶきいちぶふらんすかわらぶき)外壁(がいへき)モルタル()り(柱型梁型(はしらがたはりがた)あらわし)、脇門付(わきもんづ)き。建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)12年築(ねんちく)昭和(しょうわ)33(ねん)増築(ぞうちく)施主(せしゅ)設計(せっけい)林達夫(はやしたつお)延床面積(のべゆかめんせき):218㎡。所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

林家(はやしけ)住宅(じゅうたく)(しゅ)(おく)

平成(へいせい)27(ねん)(2015)8月4日(がつよっか)登録(とうろく)旧稲元屋呉服店(きゅういなもとやごふくてん)は、戦前(せんぜん)藤沢(ふじさわ)代表(だいひょう)する呉服商(ごふくしょう)です。初代(しょだい)は、藤沢(ふじさわ)豪商(ごうしょう)豊元屋(とよもとや)」の七子(しちし)で、厚木(あつぎ)雑貨商(ざっかしょう)内田商店(うちだしょうてん)」に奉公(ほうこう)した(のち)弘化(こうか)2(ねん)(1845)に生家(せいか)家業(かぎょう)である雑貨薪炭商(ざっかしんたんしょう)稲穂屋(いなほや)」を()いで現在地(げんざいち)創業(そうぎょう)しました。「稲元屋(いなもとや)」の屋号(やごう)は、「稲穂屋(いなほや)」と生家(せいか)豊元屋(とよもとや)」から1()ずつ()って名付(なづ)けたものです。創業後(そうぎょうご)()もなく呉服商(ごふくしょう)転業(てんぎょう)、さらに婚礼需要(こんれいじゅよう)見込(みこ)んで箪笥部(たんすぶ)(くわ)事業(じぎょう)拡大(かくだい)しました。旧稲元屋(きゅういなもとや)は、明治(めいじ)24(ねん)(1891)10(がつ)関東地方陸軍大演習(かんとうちほうりくぐんだいえんしゅう)(さい)明治天皇(めいじてんのう)行在所(あんざいしょ)(つと)めました。さらに、昭和初期(しょうわしょき)までに皇族(こうぞく)らの宿泊所(しゅくはくじょ)として10()(もち)いられるなど、藤沢(ふじさわ)でも有数(ゆうすう)名家(めいか)でした。昭和(しょうわ)15(ねん)(1940)に建立(こんりゅう)された行在所(あんざいしょ)記念碑(きねんひ)も、敷地(しきち)南側(みなみがわ)現存(げんそん)しています。かつては一番庫(いちばんこ)から八番庫(はちばんこ)まで(くら)がありましたが、昭和(しょうわ)52(ねん)(1977)の火災(かさい)老朽化(ろうきゅうか)した(くら)解体(かいたい)内蔵(うちぐら)一番蔵(いちばんぐら)2棟(ふたむね)のみが現存(げんそん)します。
内蔵(うちぐら)は、桁行(けたゆ)三間半(さんげんはん)×梁間(はりま)二間(にけん)平側(ひらがわ)入口(いりぐち)(もう)けます。切妻造銅板葺(きりづまづくりどうばんぶき)で、の平側(ひらがわ)下屋(げや)(もう)け、板敷(いたじ)きでガラス()()てて室内化(しつないか)しています(蔵前(くらまえ))。かつては、板敷(いたじ)きの廊下(ろうか)店舗(てんぽ)住居(じゅうきょ)へと接続(せつぞく)していました。1(かい)床高(ゆかだか)は72㎝と(たか)く、「内蔵(うちぐら)」との呼称(こしょう)のとおり家財(かざい)文書(ぶんしょ)(おさ)める家財蔵(かざいぐら)として(もち)いられました。(かべ)は、擬石風(ぎせきふう)(あら)()仕上(しあ)げで、軒裏(のきうら)(ぬり)()げのみ白漆喰(しろしっくい)仕上(しあ)げています。入口(いりぐち)蛇腹(じゃばら)四段(よんだん)重厚(じゅうこう)(つく)りで、見込(みこ)部分(ぶぶん)扉面(とびらめん)のみ黒漆喰塗(くろしっくい<ぬり/rt>)仕上(しあ)げています。2(かい)北側(きたがわ)には、蛇腹三段(じゃばらさんだん)(まど)(もう)け、(とびら)窓枠(まどわく)庇軒裏(ひさしのきうら)などすべて黒漆喰(くろしっくい)仕上(しあ)げです。屋根(やね)(ひさし)ともに銅板葺(どうばんぶ)きで棟装飾(むねそうしょく)など丁寧(ていねい)造作(ぞうさく)です。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造(どぞうづくり)、2階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)銅板葺(どうばんぶき)蔵前(くらまえ)()す。建設(けんせつ)年代(ねんだい)昭和(しょうわ)10(ねん)所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

(きゅう)(いな)元屋(もとや)呉服店(ごふくてん)  内蔵(うちぐら)

平成(へいせい)27(ねん)(2015)8月4日(がつよっか)登録(とうろく)一番蔵(いちばんぐら)内蔵(うちぐら)(みなみ)(なら)んで()っています。土蔵造(どぞうづく)り2階建(かいだて)で、桁行(けたゆ)三間(さんけん)×梁間(はりま)二間(にけん)平側(ひらがわ)入口(いりぐち)(もう)け、(ひさし)()しています。切妻造鉄板葺(きりづまづくりてっぱんぶき)ですが、震災前(しんさいまえ)古写真(こしゃしん)によると(もと)瓦葺(かわらぶ)きでした。(かべ)白漆喰塗(しろしっくいぬり)りですが、妻側(つまがわ)のみ鉄板(てっぱん)(おお)い、(のき)(ぬり)()げで仕上(しあ)げています。入口(いりぐち)(およ)び2(かい)(まど)蛇腹三段(じゃばらさんだん)で、見込(みこ)部分(ぶぶん)扉面(とびらめん)のみ黒漆喰塗(くろしっくいぬ)仕上(しあ)げとしています。全体的(ぜんたいてき)内蔵(うちぐら)より意匠(いしょう)簡素(かんそ)です。内部(ないぶ)(かべ)漆喰塗(しっくいぬ)りで、(ゆか)(たか)さは(ひく)く、かつては味噌(みそ)などの貯蔵庫(ちょぞうこ)であったことを裏付(うらづ)けています。構造(こうぞう)形式(けいしき)土蔵造(どぞうづくり)、2階建(かいだて)切妻造(きりづまづくり)鉄板葺(てっぱんぶき)建設(けんせつ)年代(ねんだい)明治中期(めいじちゅうき)所有者(しょゆうしゃ)個人(こじん)

(きゅう)(いな)元屋(もとや)呉服店(ごふくてん)   一番(いちばん)(ぐら)



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