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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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傘(かさ)を手(て)に持(も)ち並(なら)んだ五人男(ごにんおとこ)が描(えが)かれます。本作(ほんさく)に描(えが)かれた場面(ばめん)では、一人一人(ひとりひとり)が台詞(せりふ)にのせ、自分(じぶん)の来歴(らいれき)を語(かた)るのが見所(みどころ)です。着物(きもの)の柄(がら)については作品番号(さくひんばんごう)51と忠信利平(ただのぶりへい)、南郷力丸(なんごうりきまる)は同(おな)じですが、異(こと)なるものも見(み)られます。日本左右衛門(にっぽんざえもん)は方位磁石(ほういじしゃく)と綱(つな)が描(えが)かれ、五人男(ごにんおとこ)の首領(しゅりょう)として舵取(かじとり)り役(やく)であったことにちなみます。弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)は菊(きく)の花(はな)と、江(え)の島(しま)弁才天(べんさいてん)の眷属(けんぞく)である蛇(へび)が配(はい)されています。赤星(あかぼし)十三(じゅうざ)は桜(さくら)と鶏(にわとり)で、鶏(にわとり)は明(あ)け方(がた)を告(つ)げる鳥(とり)であることから、明(あ)け星(ぼし)(赤星(あかぼし))という関連(かんれん)に拠(よ)るものです。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』より白浪(しらなみ)五(ご)人(にん)男(おとこ))
作者不詳(さくしゃふしょう) 安政(あんせい)元年(がんねん)(1854) 江戸時代(えどじだい)末期(まっき)の黒船来航(くろふねらいこう)により、江戸幕府(えどばくふ)は大(おお)きな緊張(きんちょう)感(かん)に包(つつ)まれ、その対応(たいおう)として、三浦半島(みうらはんとう)から房総半島(ぼうそうはんとう)にかけての海岸線(かいがんせん)の守(まも)りを固(かた)めました。この海防(かいぼう)を絵図(えず)に記(しる)したものが「御固図(おかためず)」とよばれるもので、この絵図(えず)でも海岸線(かいがんせん)沿(ぞ)いに譜代大名(ふだいだいみょう)などを割(わ)り当(あ)て、強固(きょうこ)な防御(ぼうぎょ)施設(しせつ)を配備(はいび)している様子(ようす)がわかります。江戸城(えどじょう)に近(ちか)い海上(かいじょう)には砲台(ほうだい)を備(そな)えた「御台場(おだいば)」が築造(ちくぞう)され、絵図(えず)中(ちゅう)には櫓(やぐら)(やぐら)や大砲(たいほう)、藩主(はんしゅ)の家紋(かもん)の入(はい)った幟旗(のぼりばた)も見(み)えます。
浦賀圍図(うらがかこいず)
制作(せいさく)時期(じき):明治2年(めいじにねん)(1869)5月(ごがつ)。板元(はんもと):大金(たいきん) この5枚(まい)続(つづき)大作(たいさく)は明治2年(めいじにねん)の5月(ごがつ)に刊行(かんこう)されたもので、明治(めいじ)2己巳(つちのとみ)年(ねん)の開帳(かいちょう)の年(とし)に合(あ)わせて、常磐津(ときわづ)女(おんな)連中(れんちゅう)500人(にん)の名(な)が4段(だん)にわたって刷(す)られています。この作品(さくひん)と同様(どうよう)の画題(がだい)を扱(あつか)ったものに、三代(さんだい)広重(ひろしげ)の「東京(とうきょう)常磐津(ときわづ)総帥(そうすい)匠(たくみ)江(え)の嶋(しま)参詣(さんけい)之(の)図(ず)」(大判(おおばん)3枚(まい)続(つづき)、明治(めいじ)8年(ねん) 神奈川県立博物館(かながわけんりつはくぶつかん)蔵(ぞう))があります。
江嶋(えのしま)大明神(だいみょうじん)大祭(たいさい)参(まい)り常磐津(ときわづ)女(おんな)連中(れんぢゅう)
製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 二代広重(にだいひろしげ)は初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)の重宣時代(しげのぶじだい)、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)、離婚後(りこんご)横浜(よこはま)に住(す)んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)~明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)の時(とき)に数点(すうてん)の東海道(とうかいどう)シリーズを残(のこ)しています。
東海道(とうかいどう)五拾三駅(ごじゅうさんえき) 加奈川(かながわ) 横浜(よこはま)
北陸東海御巡幸双六(ほくりくとうかいごじゅんこうすごろく)
製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 藤沢(ふじさわ)にあった間(あい)の宿(しゅく)(宿場(しゅくば)間(かん)の休憩所(きゅうけいじょ))である「四ツ谷(よつや)の立場(たてば)」を描(えが)いた作品(さくひん)です。題字(だいじ) に「追分道(おいわけみち)」とあるのは、この地(ち)が東海道(とうかいどう)から大山道(おおやまみち)が分岐(ぶんき)しているためです。 二代広重(にだいひろしげ)は初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚(けっこん)以前(いぜん)の重宣(しげのぶ)時代(じだい)、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)、離婚後(りこんご)横浜(よこはま)に住(す)んでからの立祥(りゅうしょう)時代(じだい)(慶応元年(けいおうがんねん)~明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)の時(とき)に数点(すうてん)の東海道(とうかいどう)シリーズを残(のこ)しており、藤沢宿(ふじさわしゅく)の立場(たてば)、四ツ谷(よつや)を描(えが)いたこのシリーズでは、全(まった)く同(おな)じ図柄(ずがら)で、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)のものと立祥(りゅうしょう)と名(な)を改(あらた)めてからのものとの二種(にしゅ)が存在(そんざい)します。 「追分道(おいわけみち)」とあるのは、この地(ち)が東海道(とうかいどう)から大山道(おおやまみち)が分岐(ぶんき)しているためです。 茶屋(ちゃや)のにぎわいが見(み)て取(と)れましょう。左端(ひだりはし)の「大山(おおやま)みち」と書(か)かれた、不動明王像(ふどうみょうおうぞう)を戴(いただ)いた道標(みちしるべ)は、現在(げんざい)も同地(どうち)に立(た)っています。
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(えき) 藤沢(ふじさわ) 追分(おいわけ)道(みち)
張交図(はりまぜず)とは、1枚(いちまい)の中(なか)に複数(ふくすう)箇所(かしょ)の名所(めいしょ)(風景(ふうけい)、名産(めいさん)、物語(ものがたり)等(とう))を並(なら)べたもので、広重(ひろしげ)は東海道(とうかいどう)をはじめ、各地(かくち)の張交作品(はりまぜさくひん)を手(て)がけています。 1枚目(いちまいめ)は、(上段(じょうだん)から)日本橋(にほんばし)(夏(なつ)の名物(めいぶつ)、麦湯(むぎゆ)の屋台(やたい))、品川(しながわ)(大森(おおもり)〔現(げん)大田区(おおたく)〕名物(めいぶつ)の麦藁細工(むぎわらざいく)の纏(まとい))、加奈川(かながわ)(神奈川(かながわ)湊(みなと)の風景(ふうけい))、保土ヶ谷(ほどがやしゅく)(保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)の留(とめ)め女(おんな))、川崎(かわさき)(大師河原(だいしがわら)名物(めいぶつ)の梨(なし))。 2枚目(にまいめ)は、(右下(みぎした)から)戸塚(とつか)(名物(めいぶつ)「焼(や)き餅(もち)」)、藤沢(ふじさわ)(宿場(しゅくば)の飯盛女(めしもりおんな))、 四谷(よつや)追分(おいわけ)(四ツ谷(よつや)の追分(おいわけ)。人馬(にんば)の継(つ)ぎ立(だ)て場(ば)でもあったことを駕籠(かご)と馬(うま)の足(あし)で象徴(しょうちょう))、伊勢原(いせはら)(大山麓(おおやまふもと)の街(まち))、大滝(おおたき)(参詣者(さんけいしゃ)の水垢離(みずごり)の場(ば)であった大山(おおやま)の滝(たき))。 3枚目(さんまいめ)は、(右下(みぎした)から)田村(たむら)(四ツ谷(よつや)から大山(おおやま)へ向(む)かう際(さい)の相模川(さがみがわ)の渡(わた)し場(ば))、子安(こやす)(子安(こやす)の木地細工(きじざいく))、大山前不動(おおやままえふどう)(大山寺(たいさんじ)の手前(てまえ)にある堂(どう))、石尊寺(せきそんじ)来迎谷(らいごうだに)(富士山(ふじさん)に日(ひ)が沈(しず)む情景(じょうけい)は阿弥陀如来(あみだにょらい)の来迎(らいごう)と例(たと)えられていた)、良弁之滝(ろうべんのたき)(良弁上人(りょうべんしょうにん)が身(み)を清(きよ)めたという伝承(でんしょう)がある)。 いずれも、大山詣(おおやままいり)に誘(さそ)う名所(めいしょ)・名物(めいぶつ)の数々(かずかず)が描(えが)かれています。
大山道(おおやまどう)中張(ちゅうはり)交(まぜ)図会(ずえ)
安政(あんせい)5年(ねん)(1858) 歌川国貞(うたがわくにさだ)の門人(もんじん)であった貞秀(さだひで)は、鳥瞰(ちょうかん)構図(こうず)による風景画(ふうけいが)と、横浜絵(よこはまえ)を得意(とくい)としました。本(ほん)図(ず)では相模国(さがみのくに)大隅郡(おおすみぐん)(現(げん)伊勢原市(いせはらし)・秦野市(はだのし)・平塚市(ひらつかし)一帯(いったい))を描(えが)いており、東側(ひがしがわ)から見(み)た大山(おおやま)が大(おお)きく表現(ひょうげん)されています。本来(ほんらい)手前(てまえ)にあるはずの江(え)の島(しま)と藤沢(ふじさわ)が奥(おく)に描(えが)かれているなど実景(じっけい)とは異(こと)なる改変(かいへん)が加(くわ)えられていますが、平面図(へいめんず)では伝(つた)わりにくい大山(おおやま)の全体像(ぜんたいぞう)を把握(はあく)することが出来(でき)ます。大山(おおやま)の入(い)り口(くち)から山頂(さんちょう)の石尊社(せきそんしゃ)までの名所(めいしょ)のみならず、人々(ひとびと)のにぎわう様子(ようす)や気候(きこう)まで豊(ゆた)かに描写(びょうしゃ)されているのが特徴(とくちょう)です。 題名(だいめい)にある「大山寺(おおやまでら)雨降神社(あぶりじんじゃ)」とは、「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」のことです。大山(おおやま)は、相模湾(さがみわん)からの湿潤(しつじゅん)な風(かぜ)を受(う)け、雨雲(あまぐも)ができやすい地形(ちけい)のため、古来(こらい)より雨降山(あめふりやま)とも呼(よ)ばれ「雨乞(あまご)い」や「止(し)(し)雨(う)(う)」の信仰(しんこう)を集(あつ)めました。本図(もとず)でも、大山(おおやま)の山頂(さんちょう)に雨(あめ)が降(ふ)っています。
相模国(さがみのくに)大隅(おおすみ)郡(ぐん)大山寺(おおやまでら)雨降神社(あぶりじんじゃ)真景(さねかげ)