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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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源頼朝(みなもとのよりとも)による「富士の牧(巻)狩(ふじのまきがり)」は史書(ししょ)の『吾妻鏡(あずまかがみ)』(鎌倉時代(かまくらじだい)の歴史書(れきししょ))にも記(しる)されていますが、頼朝(よりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)たる権威(けんい)を誇示(こじ)するためや軍事演習(ぐんじえんしゅう)などの目的(もくてき)があったとされています。国久(くにひさ)の描(えが)く「牧狩の図(まきがりのず)」では、特(とく)に中央(ちゅうおう)に描(えが)かれた新田(にった)(仁田(にった))四郎忠常(しろうただつね)の猪退治(いのししたいじ)が強調(きょうちょう)されています。この勇猛(ゆうもう)な仁田四郎(にたんしろう)のイメージが、のちの「人穴(ひとあな)」探検譚(たんけんたん)に結(むす)びついていったようです。
源頼朝(みなもとのよりとも)公(こう)富士裾野(ふじすその)牧狩之図(まきがりのず)
昭和(しょうわ)22-25年(ねん)(1947-50)頃(ころ) 辻堂(つじどう)地域(ちいき)から見(み)た富士山(ふじさん)を描(えが)いた作品(さくひん)です。No.(28)「辻堂(つじどう)の富士(ふじ)」とほぼ同(おな)じ構図(こうず)ですが、画面(がめん)前面(ぜんめん)にかつて辻堂(つじどう)地域(ちいき)にあった砂丘(さきゅう)が広(ひろ)がり、富士山(ふじさん)と松林(まつばやし)に高(たか)さがみられ、雄大(ゆうだい)さが感(かん)じられます。
辻堂(つじどう)の冨士(ふじ)
初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)(1797~1858)最晩年(さいばんねん)の著作(ちょさく)。自序(じじょ)によると葛飾北斎(かつしかほくさい)の富嶽百景(ふがくひゃっけい)を意識(いしき)して、より写実的(しゃじつてき)な作品(さくひん)であることを強調(きょうちょう)しています。当初(とうしょ)は百景(ひゃっけい)を意図(いと)して作成(さくせい)されたようですが実際(じっさい)に出版(しゅっぱん)されたのはこの1巻(かん)(20景収録(けいしゅうろく))のみといわれています。類書(るいしょ)として明治(めいじ)22年(ねん)(1889)刊行(かんこう)の「富嶽真景(ふがくしんけい)」全(ぜん)2巻(かん)(大倉書店(おおくらしょてん)刊(かん))があり、その第(だい)1巻(かん)はこの「富士見百図(ふじみひゃくず)」を再刊(さいかん)したものです。また、第2巻(だい)にも「江(え)の島(しま)道(みち)」など、広重(ひろしげ)の画(え)に似(に)せた富士(ふじ)を描(えが)いた風景画(ふうけいが)が収録(しゅうろく)されています。
富士見(ふじみ)百図(ひゃくず) 初編(しょへん)
嘉永(かえい)6年(ねん)(1853) 二代将軍(にだいしょうぐん)となった源頼家(みなもとのよりいえ)も父(ちち)頼朝(よりとも)にならい、建仁(けんにん)3年(ねん)(1203)に富士(ふじ)の巻狩(まきがり)を行(おこな)いました(画(が)中(ちゅう)では「頼朝(よりとも)卿(きょう)」となっています)。この時(とき)の巻狩(まきがり)で、仁田四郎(にったのしろう)忠常(ただつね)は人穴(ひとあな)探索(たんさく)を命(めい)じられ、人穴(ひとあな)の中(なか)に入(はい)りました。本図(もとず)は、人穴(ひとあな)に入(はい)った仁田四郎(にったのしろう)の前(まえ)に、富士山(ふじさん)を御神体(ごしんたい)とする浅間神社(あさまじんじゃ)の主祭神(しゅさいしん)である木花開耶姫(このはなのさくやひめ)が現(あらわ)れたところを描(えが)いています。
建仁三年(けんにんさんねん)源頼朝卿(みなもとのよりともきょう)冨士之御狩(ふじのおんかり)の時(とき)仁田(にった)ノ四郎(しろう)忠常(ただつぐ)命(めい)に依(より)て人穴(ひとあな)入(はい)ル図(ず)
大判(おおばん)3枚(まい) 「富士(ふじ)の人穴(ひとあな)」の話(はなし)は「明治座新狂言(めいじざしんきょうげん)(歌舞伎(かぶき))」にも取(と)り上(あ)げられたようで、歌川芳員(うたがわよしかず)が描(えが)いた図(ず)が、芝居(しばい)の一場面(いちばめん)として「組上絵(くみあげえ)」のかたちで再現(さいげん)されています。 組上絵(くみあげえ)とは、組上燈籠(くみあげどうろう)とも呼(よ)ばれ、江戸時代(えどじだい)から明治(めいじ)にかけて親(した)しまれていた浮世絵(うきよえ)の「おもちゃ絵(え)」の一種(いっしゅ)で、切(き)りぬいて遊(あそ)ぶ. ペーパークラフトのことです。組立(くみた)てると立体的(りったいてき)な紙(かみ)のジオラマとなりました。
組(くみ)上絵(あげえ) 明治座(めいじざ)新(しん)狂言(きょうげん) 富士(ふじ)の人穴(ひとあな)
万延(まんえん)元年(がんねん) (1860) 本作(ほんさく)は、東海道(とうかいどう)と甲州街道(こうしゅうかいどう)の各(かく)両道(りょうどう)から富士山(ふじさん)への行程(こうてい)がわかるように描(えが)かれています。主(おも)に黄札(きふだ)は甲州街道(こうしゅうかいどう)の各(かく)場所(ばしょ)を、青札(あおふだ)は東海道(とうかいどう)の各(かく)宿場(しゅくば)、そして赤札(あかふだ)は霊場(れいじょう)や寺社(じしゃ)の名前(なまえ)が記(しる)されています。本作(ほんさく)も富士山(ふじさん)の御縁年(ごえんねん)に合(あ)わせて刊行(かんこう)されたと思(おも)われます。 画(が)中(ちゅう)左下(ひだりした)の藤沢(ふじさわ)には、「遊行寺(ゆぎょうじ)」や「江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)」、の文字(もじ)とともに、鳥居(とりい)と大鋸橋(だいぎりばし)(現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))が緻密(ちみつ)に描(えが)かれています。また、藤沢(ふじさわ)の隣(となり)にある四(よ)ツ谷(や)は「大山(おおやま)一(いち)ノ鳥居(とりい)」の文字(もじ)と鳥居(とりい)が描(えが)かれ、当時(とうじ)四(よ)ツ谷(や)の交差点(こうさてん)(現在(げんざい)の藤沢市(ふじさわし)城南(じょうなん)辺(あた)り)に立(た)つ鳥居(とりい)が、大山道(おおやまみち)の起点(きてん)として認識(にんしき)されていたことがうかがえます。
富士山(ふじさん)両(りょう)道中(どうちゅう)一覧(いちらん)之(の)図(ず)
万延(まんえん)元年(がんねん)(1860) No. と同(おな)じく富士山(ふじさん)の御縁年(ごえんねん)にあたる庚申(こうしん)年(ねん)に刊行(かんこう)されたことから、富士山(ふじやま)への登(とう)拝(はい)を促(うなが)す意図(いと)があったとされています。画(が)中(ちゅう)右上(みぎうえ)にある立(た)て札(ふだ)は、実際(じっさい)に宿場(しゅくば)などに立(た)てられ、今年(ことし)は庚申(こうしん)年(ねん)であること、女性(じょせい)の登山(とざん)も許可(きょか)することなどが書(か)かれています。 女性(じょせい)の富士登山(ふじとざん)は、通常(つうじょう)は二(に)合(ごう)目(め)まででそれより上(うえ)に登(のぼ)ることは禁止(きんし)されていました。庚申(こうしん)年(ねん)でも実際(じっさい)登(のぼ)ることを許(ゆる)されたのは、五合(ごごう)目(め)付近(ふきん)までであったそうです。明治(めいじ)5年(ねん)(1872)神社(じんじゃ)仏閣(ぶっかく)の女人結界(にょにんけっかい)場所(ばしょ)の廃止(はいし)により、女性(じょせい)の登山(とざん)が解禁(かいきん)されました。
冨士山(ふじやま)北口(きたぐち)女人(にょにん)登山(とざん)之(の)図(ず)
万延(まんえん)元年(がんねん)(1860) 富士山(ふじさん)は庚申(こうしん)の年(とし)に姿(すがた)を現(あらわ)したとされ、この年(とし)に登山(とざん)をすれば、33回(かい)登(のぼ)ったのと同(おな)じご利益(りやく)が得(え)られるとされていました。本作(ほんさく)が描(えが)かれた万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)は御縁年(ごえんねん)である庚申(こうしん)年(ねん)にあたり、また御(ご)縁(えん)年(ねん)は女人禁制(にょにんきんせい)の規制(きせい)も緩和(かんわ)されたため、図(ず)中(ちゅう)にも群衆(ぐんしゅう)の中(なか)に女性(じょせい)が描(えが)かれています。多(おお)くの富士講(ふじこう)の信者(しんじゃ)が登(とう)拝(はい)する様子(ようす)から富士(ふじ)詣(もうで)の隆盛(りゅうせい)ぶりが伝(つた)わってきます。
庚申(こうしん)年(ねん)富士山(ふじさん)参詣(さんけい)群集(ぐんしゅう)之(の)図(ず)