ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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戸塚宿(とつかしゅく)の西側(にしがわ)に位置(いち)する大(おお)坂(さか)(おおさか)の場面(ばめん)が描(えが)かれています。大坂(おおさか)は急(きゅう)勾配(こうばい)の坂(さか)が続(つづ)く難所(なんしょ)として知(し)られており、また松並木(まつなみき)の向(む)こうに丹沢(たんざわ)山系(さんけい)や富士山(ふじさん)を望(のぞ)み、眺(なが)めのよい場所(ばしょ)でもありました。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 戸塚(とつか)
日本橋(にほんばし)から京都(きょうと)まで、東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)ごとに句(く)(詩(し))と画(え)(イラスト)を添(そ)えて、中(ちゅう)判(ばん)横(よこ)の画(え)12枚(まい)をつなぎ、コンパクトな折(お)り本(ほん)に仕立(した)てた作品(さくひん)です。 作者(さくしゃ)は春川英蝶(はるかわえいちょう)とも称(しょう)し、菊川英山(きくかわえいざん)及(およ)び渓斎英泉(けいさいえいせん)の門人(もんじん)です。艶(つや)やかな美人画(びじんが)を得意(とくい)とし、草双紙(くさぞうし)(絵(え)が入(はい)った娯楽(ごらく)本(ほん))の挿絵(さしえ)も多(おお)く描(えが)きました。この作品(さくひん)の登場人物(とうじょうじんぶつ)も実(じつ)に生(い)き生(い)きと描(えが)かれています。
懐(かい)宝(ほう)一覧(いちらん) 花(はな)の美(み)や古路(こじ)
本作(ほんさく)は現在(げんざい)の横浜市金沢区(よこはましかなざわく)の景勝地(けいしょうち)、金沢八景(かなざわはっけい)が画面(がめん)に描(えが)きこまれています。金沢八景(かなざわはっけい)は「小泉夜雨(こいずみのやう)」「称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)」「乙艫帰帆(おっとものきはん)」「洲崎晴嵐(すさきのせいらん)」「瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)」「平潟落雁(ひらがたのらくがん)」「野島夕照(のじまのせきしょう)」「内川暮雪(うちかわのぼせつ)」の8つの風景(ふうけい)です。右下(みぎした)のある「明神(みょうじん)」は瀬戸三島明神(せとみしまみょうじん)(瀬戸神社(せとじんじゃ))を示(しめ)しています。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 金澤(かなざわ)八景(はっけい)
東海道(とうかいどう)を旅(たび)する人々(ひとびと)を描(えが)いたシリーズの1枚(まい)です。「神奈川(かながわ)」の図(ず)は、「道中(どうちゅう)風俗(ふうぞく)江(え)の島(しま)詣(もうで)盲人(もうじん)弁天(べんてん)参(まい)り」と書(か)かれており、江(え)の島(しま)弁財天(べんざいてん)へ参詣(さんけい)する人々(ひとびと)が描(えが)かれています。遠景(えんけい)(画面(がめん)上部(じょうぶ))には、神奈川宿(かながわしゅく)の風景(ふうけい)と「相州(そうしゅう)大山道(おおやまみち)あつぎ かい道(どう)追分(おいわけ)」の文字(もじ)が書(か)かれています。江(え)の島(しま)だけではなく、大山(おおやま)へ参詣(さんけい)する人(ひと)たちも通(とお)った道(みち)ということがわかります。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)細見(さいけん)図絵(ずえ) 神奈川(かながわ) 程(ほど)ヶ谷(や)へ一(いち)り九(きゅう)丁(ちょう)
制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ねん)(1853)。 板元(はんもと):若与(わかよ) 立派(りっぱ)な乗(の)り物(もの)に乗(の)った貴人(きじん)が江(え)の島(しま)参詣(さんけい)を終(お)えて、片瀬(かたせ)浜(はま)を小動(こゆるぎ)崎(さき)を経(へ)て七里ガ浜(しちりがはま)に向(むか)うところでしょうか。 挟箱(はさみばこ)を先頭(せんとう)に長刀(なぎなた)、羅紗(らしゃ)入(いり)袋(ふくろ)の日傘(ひがさ)、腰(こし)物(もの)筒(づつ)、履物(はきもの)持(もち)など行列(ぎょうれつ)の威儀(いぎ)を正(ただ)し、御殿(ごてん)女中(じょちゅう)たちは揃(そろ)いの梅(うめ)の模様(もよう)の着物(きもの)に揃(そろ)いの日傘(ひがさ)を差(さ)し、物(もの)持(も)ちは藤花(ふじはな)や麻(あさ)の葉(は)模様(もよう)の振袖(ふりそで)姿(すがた)、4人(にん)の六尺(ろくしゃく)が担(かつ)ぐ緋色(ひいろ)に松竹梅(しょうちくばい)の模様(もよう)の羅紗(らしゃ)の日覆(ひおおい)をかけた乗物(のりもの)の周囲(しゅうい)には、色(いろ)とりどりの裲襠(うちかけ)姿(すがた)の上臈(じょうろう)たちがいて、その後(うしろ)には菅傘(すげがさ)の侍(さむらい)の列(れつ)が続(つづ)いています。この乗物(のりもの)の主(あるじ)は、相当(そうとう)身分(みぶん)の高(たか)い大名(だいみょう)の奥方(おくがた)か大奥(おおおく)の行列(ぎょうれつ)を想像(そうぞう)させます。 江(え)の島(しま)弁財天(べんざいてん)は家康(いえやす)が慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600年(ねん))に関東(かんとう)に下向(げこう)したときに参詣(さんけい)して以来(いらい)、代々(だいだい)の将軍家(しょうぐんけ)の祈祷(きとう)所(しょ)となったことや、五代(ごだい)将軍(しょうぐん)綱吉(つなよし)の病気(びょうき)が杉山検校(すぎやまけんぎょう)の祈祷(きとう)と治療(ちりょう)によって平癒(へいゆ)したこともあって、大奥(おおおく)及(およ)び諸(しょ)大名(だいみょう)からの信仰(しんこう)を多(おお)く集(あつ)めたといわれています。上空(じょうくう)に飛(と)ぶ二羽(にわ)の鶴(つる)に大奥(おおおく)の参詣(さんけい)の行列(ぎょうれつ)であることを、広重(ひろしげ)はそれとなく表現(ひょうげん)しているように思(おも)われます。
江(え)のしま参詣(さんけい)の図(ず)
江(え)の島(しま)と富士(ふじ)という二(ふた)つの名勝(めいしょう)(有名(ゆうめい)な景色(けしき))を望(のぞ)む地(ち)として、本図(ほんず)のような七里が浜(しちりがはま)からの眺(なが)めは風景画(ふうけいが)に好(この)んで描(えが)かれました。画面(がめん)右(みぎ)に見(み)える「カタセ」(片瀬(かたせ))は、江(え)の島(しま)へ向(む)かう門前町(もんぜんまち)(お寺(てら)や神社(じんじゃ)の外(そと)にある町(まち))として、旅館(りょかん)や土産物店(みやげものてん)が軒(のき)を連(つら)ねました。その左(ひだり)に見(み)える小高(こだか)い島(しま)は小動岬(こゆるぎみさき)です。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 七里(しちり)が浜(はま)
本作(ほんさく)は引(ひ)き潮(しお)時(じ)の江(え)の島(しま)が描(えが)かれており、参詣(さんけい)に向(む)かう人々(ひとびと)が砂洲(さす)を歩(ある)く様子(ようす)が見(み)られます。この砂洲(さす)は「洲鼻(すばな)」と呼(よ)ばれ、現在(げんざい)もこの道(みち)に通(つう)じる道(みち)「洲鼻通(すばなどお)り」にその名(な)が残(のこ)っています。なお江戸時代(えどじだい)は、現在(げんざい)のように江(え)の島(しま)までの橋(はし)が架(か)かっていなかったため、満(み)ち潮(しお)の時(とき)は船(ふね)に乗(の)って江の島(えのしま)へ渡(わた)りました。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 江(え)の島(しま)
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 五右衛門風呂(ごえもんぶろ)の入(はい)り方(かた)がわからなかった喜多(きた)さんは、下駄(げた)を履(は)いたまま入(はい)り、五右衛門風呂(ごえもんぶろ)の底(そこ)を踏(ふ)み抜(ぬ)いてしまいます。これは一九(いっく)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」にも登場(とうじょう)する有名(ゆうめい)な場面(ばめん)です。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 小田原(おだわら)