Fujisawa Net Museum

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平塚(ひらつか)場面(ばめん)では、喜多(きた)さんが(いぬ)団子(だんご)をあげたところ、すべて()べてしまったとあり、その様子(ようす)茶屋(ちゃや)女性(じょせい)から駕籠(かご)(かつ)ぎの(ひと)まで(わら)って()ています。画面(がめん)左上(ひだりうえ)看板(かんばん)には、「(やすみ)どころ 中宿(なかじく) 秋田屋(あきたや)」とあることから(たび)途中(とちゅう)休息(きゅうそく)をとっている(よう)です。

藤沢(ふじさわ)宿(しゅく)平塚(ひらつか)宿(しゅく)(あいだ)には「立場(たてば)」と()ばれる駕籠(かご)(かつ)ぎや(うま)(やす)ませる休息所(きゅうそくじょ)がありました。(なか)でも眺望(ちょうぼう)()いところなどは旅人(たびびと)休憩所(きゅうけいしょ)となる「立場(たてば)茶屋(ちゃや)」がありました。

製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。
板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ))

街道(かいどう)には、旅人(たびびと)休憩(きゅうけい)するための簡素(かんそ)茶屋(ちゃや)点在(てんざい)していました。画中(がちゅう)でも、弥次喜多(やじきた)二人(ふたり)茶屋(ちゃや)一服(いっぷく)していますが、(いぬ)団子(だんご)(ねら)われているようです。

このシリーズは(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を()して(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに(えが)き、魯文(ろぶん)各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)狂歌一句(きょうかいっく)二人(ふたり)会話(かいわ)をおもしろおかしく(しる)しています。

東海道中栗毛彌次馬 平塚

東海道(とうかいどう)(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 平塚(ひらつか)

すっぽんに(ゆび)()まれる喜多(きた)さん、()()さんに(たす)けを()います。三島宿(みしましゅく)旅籠(はたご)ですっぽんに()まれ一難(いちなん)あった()()さんは(おも)()すように喜多(きた)さんへ忠告(ちゅうこく)をします。
 「そりやアたいへんだすっぽんにくらひつかれらやアかみなりさまがならねへうちやアはなさねへしんぼうしてまつてゐさし(そりゃ大変(たいへん)だ、すっぽんに()らいつかれたら、(かみなり)でも()らなきゃ(はな)れない。辛抱(しんぼう)して()っていなさい。)」
()()さんが忠告(ちゅうこく)()ってまもなく、すっぽんが(ゆび)から(はな)れ、喜多(きた)さんが駄洒落(だじゃれ)()います。

製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。
板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ))

このシリーズは(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を()して(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに(えが)き、魯文(ろぶん)各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)狂歌一句(きょうかいっく)二人(ふたり)会話(かいわ)をおもしろおかしく(しる)しています。

東海道中栗毛彌次馬 御油

東海道(とうかいどう)(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 御油(ごゆ)

馬士(ばし)(にん)喧嘩(けんか)をしている(さま)です。弥次(やじ)さんと喜多(きた)さんだけではなく、(うま)もどこか()ややかな()()ているのが滑稽(こっけい)場面(ばめん)です。馬士(ばし)は、荷物(にもつ)(うま)()せたり、()かせたりして(はこ)ぶことを職業(しょくぎょう)とした(ひと)たちです。保土ヶ谷宿(ほどがやじゅく)は、問屋(とんや)()幕府(ばくふ)公用(こうよう)旅行者(りょこうしゃ)大名(だいみょう)などの荷物(にもつ)(はこ)人足(にんそく)(うま)()仕切(しき)())が(おお)くその(かず)(やく)40(そん)あり、杉田(すぎた)(むら)(げん)横浜市(よこはまし)磯子区(いそごく))から成瀬(なるせ)(むら)(げん)東京都(とうきょうと)町田市(まちだし))まで(およ)びました。

製作(せいさく)時期(じき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)。
板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ))
このシリーズは(だい)ヒットした十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を()して(つく)られています。(かく)宿(やど)には弥次(やじ))さん、喜多(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに(えが)き、魯文(ろぶん)(かく)宿(やど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)狂歌(きょうか)一句(いっく)二人(ふたり)会話(かいわ)をおもしろおかしく(しる)しています。

東海道中栗毛彌次馬 程ヶ谷

東海道(とうかいどう)(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) (ほど)()

弥次喜多(やじきた)がかつてこの戸塚(とつか)には(だい)睾丸(こうがん)(ひと)がいたという話題(わだい)(たの)しんでいます。その(ひと)は、()(ちゅう)(すわ)っている男性(だんせい)のことでしょうか・・。十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』では、弥次(やじ)さん喜多(きた)さんが江戸(えど)出発(しゅっぱつ)してから最初(さいしょ)()まったのが戸塚(とつか)宿(しゅく)です。戸塚(とつか)宿(しゅく)は、江戸(えど)から十里(じゅうり)(やく)40㎞)と一般(いっぱん)(ひと)(ある)く一(にち)行程(こうてい)距離(きょり)でした。 製作(せいさく)時期(じき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)。
板元(はんもと):當世屋(とせや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ))

このシリーズは(だい)ヒットした十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を()して(つく)られています。(かく)宿(やど)には弥次(やじ)さん、喜多(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに(えが)き、魯文(ろぶん)(かく)宿(やど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)狂歌(きょうか)一句(いっく)二人(ふたり)会話(かいわ)をおもしろおかしく(しる)しています。

東海道中栗毛彌次馬 戸塚

東海道(とうかいどう)(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 戸塚(とつか)

製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえんがんねん)(1860)
板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ))

(さか)()()る、鈴鹿(すずか)(くもり)る、あいの土山(つちやま)(あめ)()る」と(うた)われほど(あめ)(おお)いところであった土山(つちやま)を、弥次喜多(やじきた)二人(ふたり)はうつむき加減(かげん)黙々(もくもく)(ある)いているように()えます。いつもふざけてばかりの二人(ふたり)でも()()むこともあるのでしょうか。いいえ、どうやら、相変(あいか)わらず冗談(じょうだん)()()っているようです。
このシリーズは(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を()して(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに(えが)き、魯文(ろぶん)各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)狂歌一句(きょうかいっく)二人(ふたり)会話(かいわ)をおもしろおかしく(しる)しています。

東海道中栗毛彌次馬 土山

東海道(とうかいどう)(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 土山(つちやま)



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