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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作(せいさく)時期(じき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 六郷(ろくごう)の渡(わた)しを舟(ふね)で渡(わた)っている最中(さいちゅう)に、弥次(やじ)さんは手(て)ぬぐいと間違(まちが)えてふんどしを川(かわ)に流(なが)してしまいます。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各(かく)宿(やど)には弥次(やじ))さん、喜多(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各(かく)宿(やど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌(きょうか)一句(いっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 川崎(かわさき)
製作(せいさく)時期(じき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) よそ見(み)をしていた喜多(きた)さんは、前(まえ)からやってきた町(まち)飛脚(びきゃく)の棒(ぼう)に額(がく)をぶつけてしまい、周囲(しゅうい)の人々(ひとびと)はそれを見(み)て笑(わら)っています。後景(こうけい)に広(ひろ)がる海(うみ)の中央(ちゅうおう)には台場(だいば)が見(み)えます。これは嘉永(かえい)6年(ねん)(1853)の黒船来航(くろふねらいこう)に際(さい)し幕府(ばくふ)が築造(ちくぞう)した砲台(ほうだい)で、現在(げんざい)も公園(こうえん)として残(のこ)されています。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各(かく)宿(やど)には弥次(やじ)さん、喜多(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各(かく)宿(やど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌(きょうか)一句(いっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 品川(しながわ)
製作(せいさく)時期(じき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 人々(ひとびと)や物売(ものう)りが行(い)きかう賑(にぎ)やかな日本橋(にほんばし)で、豆(まめ)売(う)りから豆(まめ)を値切(ねぎ)ろうとしています。そのうしろには、てんぷら屋(や)と寿司屋(すしや)の屋台(やたい)が見(み)えます。江戸時代(えどじだい)からてんぷらと寿司(すし)は馴染(なじ)みの食(た)べ物(もの)で、当時(とうじ)は屋台(やたい)で気軽(きがる)に食(た)べられるものでした。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各(かく)宿(やど)には弥次(やじ)さん、喜多(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各(かく)宿(やど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌(きょうか)一句(いっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 日本橋(にほんばし)
旅先(たびさき)で出会(であ)った笠(かさ)をかぶった六十六部(ろくじゅうろくぶ)(行脚(あんぎゃ)僧(そう))をはさんで、弥次喜多(やじきた)が見得(みえ)を切(き)って、ふざけています。 弥(や)次(じ)さんは歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)の真似(まね)をして「なりたやならぬ、とちめんや(弥(や)次(じ)さんの屋号(やごう))」と名乗(なの)りを上(あ)げています。とちめんとは、トチの実(み)の粉(こな)を小麦粉(こむぎこ)や蕎麦粉(そばこ)とまぜて、うどんのようにして食(た)べた麺(めん)のことです。すぐに硬(かた)くなるため、急(いそ)いで処理(しょり)する必要(ひつよう)があり、栃麺棒(とちめんぼう)を忙(いそが)しく振(ふ)るっている様(さま)が大騒(おおさわ)ぎしているように見(み)えることから、落(お)ち着(つ)きのない慌(あわ)て者(しゃ)を「栃麺棒(とちめんぼう)」にたとえていました。そのため、たえず大騒(おおさわ)ぎしている弥(や)次(じ)さんは「栃(とち)面屋(おもや)」という号(ごう)になっています。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 鞠子(まりこ)
製作(せいさく)時期(じき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 神奈川宿(かながわしゅく)と保土ヶ谷(ほどがや)宿(しゅく)の中間(ちゅうかん)に位置(いち)する浅間(せんげん)神社(じんじゃ)にある「富士(ふじ)の人穴(ひとあな)」と呼(よ)ばれる横穴(よこあな)は、富士山(ふじさん)に繋(つな)がっていると考(かんが)えられており、東海道中(とうかいどうちゅう)の名所(めいしょ)となっていました。 画中(がちゅう)では人穴(ひとあな)をのぞこうとした喜多(きた)さんが、地面(じめん)に転(ころ)がり落(お)ちてしまいました。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各(かく)宿(やど)には弥次(やじ)さん、喜多(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各(かく)宿(やど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌(きょうか)一句(いっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 神奈川(かながわ)
弥次喜多(やじきた)に声(こえ)を掛(か)けている女性(じょせい)や化粧直(けしょうなお)しをしている女性(じょせい)などがいます。この女性(じょせい)たちは飯盛女(めしもりおんな)と呼(よ)ばれ客(きゃく)への給仕(きゅうじ)、雑用(ざつよう)のほか、遊女(ゆうじょ)の役目(やくめ)も持(も)っていました。飯盛女(めしもりおんな)たちの顔(かお)は似(に)たり寄(よ)ったりなどと弥次喜多(やじきた)は評(ひょう)しています。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 宿場(しゅくば)の旅籠(はたご)の前(まえ)に立(た)って客引(きゃくひ)きをする女性(じょせい)のことを留女(とめおんな)とよびました。旅人(たびびと)の着物(きもの)の衿首(えりくび)をつかむ、荷物(にもつ)をつかむなど、少々(しょうしょう)強引(ごういん)な客引(きゃくひ)きの様子(ようす)も、街道(かいどう)の風物詩(ふうぶつし)の一(ひと)つでした。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 原(はら)の駅(えき)
五条(ごじょう)の橋(はし)といえば、源義経(みなもとのよしつね)と弁慶(べんけい)が出会(であ)った橋(はし)です。弥次喜多(やじきた)は弁慶(べんけい)のような風貌(ふうぼう)の人物(じんぶつ)と遭遇(そうぐう)します。喜多(きた)さんは義経(よしつね)の真似(まね)をして五條(ごじょう)橋(きょう)の欄干(らんかん)に乗(の)りましたが、真(ま)っ逆(さか)さまに転(ころ)げ落(お)ちてしまいました。 製作時期(せいさくじき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくしゅく)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくしゅく)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 五條(ごじょう)橋(ばし)
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 浜松宿(はままつしゅく)に宿泊(しゅくはく)した際(さい)の夜更(よふ)けに、外(そと)に干(ほ)したままであった襦袢(じゅばん)を幽霊(ゆうれい)と見間違(みまちが)えて大騒(おおさわ)ぎの二人(ふたり)です。これは一九(いっく)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」にも登場(とうじょう)する有名(ゆうめい)な場面(ばめん)です。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 浜松(はままつ)