ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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乗(の)った馬(うま)にはね落(お)とされた弥(や)次(じ)さんは、腰(こし)を打(う)ってしまいます。喜多(きた)さんが、先(さき)を歩(ある)いていく新造(しんぞう)(若(わか)い娘(むすめ))にみとれてばかりいるからだとからかいます。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 藤枝(ふじえだ)
こっそり夜這(よば)いに行(い)った弥(や)次(じ)さんは、人違(ひとちが)いだったことに気(き)づいて謝(あやま)りますが、怒(おこ)った女性(じょせい)から投(な)げられて、隣(となり)の部屋(へや)で寝(ね)ていた喜多(きた)さんの上(うえ)に、ふすまごとひっくり返(かえ)ります。驚(おどろ)いた喜多(きた)さんは、逃(に)げようと必死(ひっし)です。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 岡部(おかべ)
弥(や)次(じ)さんのふんどしを引(ひ)っ張(ぱ)って離(はな)さない女性(じょせい)と、困(こま)った表情(ひょうじょう)の弥(や)次(じ)さんが描(えが)かれています。女性(じょせい)は夜(よる)が明(あ)けてさっさと帰(かえ)ろうとする弥(や)次(じ)さんに対(たい)し、離(はな)してほしければ5両(りょう)か6両(りょう)を置(お)いていけとせがんでいます。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 府中(ふちゅう)
無事(ぶじ)に興津川(おきつがわ)を渡(わた)った二人(ふたり)は、江尻(えじり)で喜多(きた)さんが占(うらな)い師(し)に手相(てそう)を見(み)てもらっている様子(ようす)が描(えが)かれています。江戸(えど)に置(お)いてきた女性(じょせい)が心変(こころが)わりしていないか占(うらな)い師(し)に見(み)てもらおうとしている喜多(きた)さんに、弥(や)次(じ)さんは呆(あき)れている様(よう)です。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 江尻(えじり)
弥次喜多(やじきた)が肩車(かたぐるま)をされて興津川(おきつがわ)を渡(わた)っています。川(かわ)は江戸幕府(えどばくふ)が防衛(ぼうえい)のために橋(はし)を架(か)けることを禁(きん)じていたため、人足(にんそく)と呼(よ)ばれる人(ひと)の助(たす)けを借(か)りて渡(わた)りました。画(が)中左(ちゅうひだり)の人足(にんそく)に乗(の)っているのが弥(や)次(じ)さんです。渋(しぶ)い顔(かお)をして、人足(にんそく)と何(なに)かを言(い)いあいをしているようです。どうやら、弥(や)次(じ)さんの大事(だいじ)な所(ところ)に人足(にんそく)の背中(せなか)が当(あ)たり、痛(いた)くてしょうがないというところです。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 興津(おきつ)
弥(や)次(じ)さんと浪人(ろうにん)が何(なに)かのかけ合(あ)いをしています。ポーズをとってまるで歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)のようです。どうやら旅費(りょひ)を浪人(ろうにん)に少(すこ)しお裾分(すそわ)けしてもらおうとしているようです。最後(さいご)は二人(ふたり)で「旅(たび)は道連(みちづ)れ 世(よ)は情(なさ)け」と締(し)めくくっています。 画(が)中(ちゅう)の文章(ぶんしょう)の終(お)わりには二人(ふたり)のセリフを合理的(ごうりてき)に分(わ)ける印(しるし)で「▲弥(や)次(じ)●浪人(ろうにん)」と書(か)かれており、二人(ふたり)の掛(か)け合(あ)いのスピード感(かん)を表(あらわ)しています。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 吉原(よしはら)
中国(ちゅうごく)の故事(こじ)「司馬(しば)温(おん)公(こう)の瓶(かめ)割(わ)り」の話(はなし)を出(だ)して、窯(かま)の中(なか)を覗(のぞ)いた喜多(きた)さん。「司馬(しば)温(おん)公(こう)の瓶(かめ)割(わ)り」とは、司馬(しば)温(おん)公(こう)が子(こ)どもの頃(ころ)、高価(こうか)でとても大(おお)きい水瓶(みずがめ)のあたりで友達(ともだち)と遊(あそ)んでいたところ高価(こうか)で大(おお)きな水瓶(みずがめ)の中(なか)に友達(ともだち)が落(お)ちてしまいます。父親(ちちおや)に叱(しか)られることを覚悟(かくご)で瓶(びん)を壊(こわ)し友達(ともだち)を助(たす)けました。そんな温(おん)公(こう)に対(たい)し父親(ちちおや)は命(いのち)を助(たす)けたことを褒(ほ)めたという逸話(いつわ)です。窯(かま)の中(なか)に入(はい)ってしまった喜多(きた)さんでしたが、烏帽子(えぼし)をかぶった男(おとこ)にこの窯(かま)は源頼朝(みなもとのよりとも)に縁(えん)がある大事(だいじ)な窯(かま)だぞと温(おん)公(こう)とは逆(ぎゃく)に叱(しか)られてしまいます。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 沼津(ぬまづ)
弥次喜多(やじきた)が箱根(はこね)八里(はちり)の険(けわ)しい山(やま)道(みち)を歩(ある)いています。一九の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』の箱根(はこね)では、喜多(きた)さんが松明(たいまつ)で冗談(じょうだん)をいう場面(ばめん)があります。画(え)中(ちゅう)では、歌舞伎(かぶき)役者(やくしゃ)のような恰好(かっこう)をした男性(だんせい)が二人(ふたり)を驚(おどろ)かせています。 箱根(はこね)は、江戸時代(えどじだい)も「箱根(はこね)の七湯(ゆ)」と呼(よ)ばれ湯治場(とうじば)として有名(ゆうめい)でした。また、江戸(えど)の防衛(ぼうえい)のために設置(せっち)された関所(せきしょ)のひとつに箱根(はこね)の関所(せきしょ)がありました。関所(せきしょ)の中(なか)でも「重(おも)き関所(せきしょ)」として厳(きび)しい取(と)り締(し)まりがありました。 製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 箱根(はこね)