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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11年(ねん)頃(ごろ)(1840)。 板元(はんもと):佐野屋(さのや)喜兵衛(きへえ) このシリーズは図柄(ずがら)の中(なか)に狂歌(きょうか)が1首(しゅ)ずつ折(お)り込(こ)まれているために俗(ぞく)に「狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう)」と呼(よ)ばれています。 保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)と反対(はんたい)に遊行寺(ゆぎょうじ)の側(がわ)から大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))と江(え)の島(しま)一ノ(いちの)鳥居(とりい)を描(えが)いたもので、背景(はいけい)にある山(やま)は大山(おおやま)です。 橋(はし)の上(うえ)の人物(じんぶつ)が担(かつ)いでいるのは御神酒(おみき)枠(わく)(大山(おおやま)から水(みず)や酒(さけ)を持(も)ち帰(かえ)るためのもの)で大山(おおやま)詣(もうで)を象徴(しょうちょう)しています。橋(はし)のたもとの高札場(こうさつば)など、宿場(しゅくば)の様子(ようす)も窺(うかが)えます。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)13年(ねん)(1842)。 板元(はんもと):江崎屋(えさきや)吉兵衛(きちべえ) このシリーズは表題(ひょうだい)の書体(しょたい)から俗(ぞく)に行書(ぎょうしょ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。 画面(がめん)右(みぎ)に江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)、左(ひだり)に大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))を描(えが)いています。 大鋸(だいぎり)橋(ばし)を通(とお)っているのは東海道(とうかいどう)で、この鳥居(とりい)が東海道(とうかいどう)から江(え)の島道(しまみち)への入口(いりぐち)になっています。 橋(はし)の上(うえ)の人物(じんぶつ)が担(かつ)いでいるは御神酒(おみき)枠(わく)(大山(おおやま)から水(みず)や酒(さけ)を持(も)ち帰(かえ)るためのもの)で、一行(いっこう)が大山(おおやま)詣(もうで)の帰(かえ)りであることが分(わ)かります。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 藤沢(ふじさわ)(行書(ぎょうしょ)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)3年(ねん)(1832)~天保(てんぽう)4年(ねん)(1833)。 板元(はんもと):保永(ほえい)堂(どう) 広重(ひろしげ)には東海道(とうかいどう)の風景(ふうけい)を描(えが)いたシリーズがいくつもあり、このシリーズは一般(いっぱん)に板元(はんもと)の名(な)から保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれています。構図(こうず)の良(よ)さや着眼点(ちゃくがんてん)が受(う)けて、広重(ひろしげ)最高傑作(さいこうけっさく)シリーズとして大(だい)ヒットし、以後(いご)風景画(ふうけいが)の第一人者(だいいちにんしゃ)と呼(よ)ばれるようになりました。図(ず)は藤沢宿(ふじさわしゅく)にあった江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)を遊行寺(ゆぎょうじ)を背景(はいけい)にして描(えが)いたもので、鳥居(とりい)の後(うし)ろに架(か)かる橋(はし)は大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))です。 橋(はし)の上(うえ)で大(おお)きな木太刀(きだち)を持(も)った人(ひと)たちは大山(おおやま)詣(もうで)(雨降神社(あまたらしじんじゃ)に太刀(たち)を奉納(ほうのう)する)、手前(てまえ)、鳥居(とりい)をくぐろうとしている杖(つえ)をついた人(ひと)たちは江(え)の島(しま)詣(もうで)(杉山検校(すぎやまけんぎょう)の故事(こじ)にあやかって目(め)の不自由(ふじゆう)な人(ひと)たちの参詣(さんけい)が盛(さか)んだった)で、藤沢宿(ふじさわしゅく)が両(りょう)地(ち)への参詣(さんけい)者(しゃ)で賑(にぎ)わっていたことを示(しめ)しています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 藤沢(ふじさわ)(保永(ほえい)堂(どう)版(ばん))
蓮華座(れんげざ)(仏像台座(ぶつぞうだいざ))の最下部(さいかぶ)を構成(こうせい)する上下二枚(じょうげにまい)の框(かまち)に永禄八年(えいろくはちねん)(1565)の仏像製作(ぶつぞうせいさく)、奉納時(ほうのうじ)の銘文(めいぶん)がある。「相州小坂郡(そうしゅうこさかぐん) 大庭庄板戸(おおばのしょういた ど)〔坂戸(さかど)の誤記(ごき)〕郷浄光寺(ごうじょうこうじ)」とあって、当時(とうじ)の寺名表記(てらめいひょうき)がわかるほか、「大庭庄(おおばのしょう)」は、平安時代(へいあんじだい)の大庭郷(おおばごう)、中世(ちゅうせい)の大庭御厨(おおばのみくりや)(伊勢神宮荘園(いせじんぐうしょうえん))に続(つづ)く地名(ちめい)。列挙(れっきょ)される奉納者名(ほうのうしゃめい)のなかに、藤沢宿本陣家(ふじさわしゅくほんじんけ)の蒔田家(まきたけ)など後(のち)の藤沢宿(ふじさわしゅく)の有力者(ゆうりょくしゃ)の先祖(せんぞ)にあたる名(な)が確認(かくにん)できるなど、藤沢宿以前(ふじさわしゅくいぜん)の歴史(れきし)を語(かた)る歴史資料(れきししりょう)として重要(じゅうよう)な文化財(ぶんかざい)である。 なお、現在(げんざい)安置(あんち)されている聖観音像(しょうかんのんぞう)は近世後期(きんせいこうき)のものであり、蓮華座(れんげざ)の指定(してい)に際(さい)して、附(つけたり)として指定(してい)された。 【銘文(めいぶん)1】(最下段(さいかだん)) 最大径(さいだいけい)31.8㎝・高(たか)4.5㎝ 敬白相州小坂郡(けいはくそうしゅうこさかぐん)/大庭庄板戸郷浄光寺(おおばのしょうさかどごうじょうこうじ)/本尊奉御光臺座(ほんぞんごこうだいざ)たてまつり/造立諸旦那結衆頓證(ぞうりゅうしょだんなけっしゅとんしょう)/佛果無疑者也乃至法(ぶっかうたがいなきものなりないしほっ)/界平等利益(かいびょうどうりやく)/當寺ノ看主得譽恵撓(とうじのかんすとくよけいこう)/鎌倉佛師中納言(かまくらぶっしちゅうなごん)/宗翁(そうおう) (花押(かおう))/亍時永禄乙丑年(ときにえいろくきのとうし)四月一日(しがつついたち) 【銘文(めいぶん)2】(下(した)から二番目(にばんめ)) 最大径(さいだいけい)25.0㎝・高(たか)3.4㎝ 勧進(かんじん) 檀方源右衛門(だんぽうげんえもん)/富塚善右衛門(とみづかぜんえもん)/椙山六郎左衛門(すぎやまろくろうざえもん)/北村由右衛門(きたむらよしえもん)/福山□左衛門(ふくやま□ざえもん)/端山□左衛門(はやま□ざえもん) 塩崎(しおざき□□□)/石井□助郎(いしい□すけろう) 神崎□□介(かんざき□□すけ)/蒔田宗左衛門(まきたそうざえもん) 小関右近介(こせきうこんのすけ)/磯崎又七郎(いそざきまたしちろう) 曽□□左衛門(そ□□ざえもん) 所有管理者(しょゆうかんりしゃ):常光寺(じょうこうじ)
木造(もくぞう)蓮華(れんげ)座(ざ)
令和(れいわ)3年(ねん)(2021)2月1日(がつついたち)指定(してい) 縦(たて)・横(よこ) 最大(さいだい)85㎝×85㎝ 高(たか)さ約(やく)50㎝ 鳥居(とりい)の柱(はしら)の土台(どだい)の石(いし)です。現在(げんざい)、遊行寺(ゆぎょうじ)宝物(ほうもつ)館(かん)の入口(いりぐち)両(りょう)脇(わき)に置(お)かれていますが、もとは旧東海道(きゅうとうかいどう)から分(わ)かれて南下(なんか)する江(え)の島道(しまみち)の入口(いりぐち)(藤沢(ふじさわ)1丁目(ちょうめ)。遊行寺(ゆぎょうじ)橋西(ばしにし)詰(づめ)。自動車排出(じどうしゃはいしゅつ)ガス測定(そくてい)局(きょく)付近(ふきん))にあった江島神社(えのしまじんじゃ)遥拝(ようはい)鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)です。文政(ぶんせい)六(ろく)年(ねん)(1823)に建(た)てられた青銅(せいどう)製(せい)鳥居(とりい)(二(に)代目(だいめ)。初代(しょだい)は明和(めいわ)六(ろく)年(ねん)・1769)が、明治(めいじ)十(じゅう)三(さん)年(ねん)(1880)十一月(じゅういちがつ)の藤沢宿(ふじさわしゅく)大火(たいか)で焼損(しょうそん)し、翌(よく)明治(めいじ)十(じゅう)四(よ)年(ねん)四月(しがつ)に木造(もくぞう)(木(もく)柱(ちゅう)銅板(どうばん)巻(ま)き)として再建(さいけん)(三代(さんだい)目(め))された際(さい)の沓(くつ)石(いし)であることが、沓(くつ)石(いし)の側面(そくめん)に刻(きざ)まれた銘文(めいぶん)からわかります。 その後(ご)、明治(めいじ)三(さん)十(じゅう)年(ねん)頃(ごろ)に鳥居(とりい)は腐朽(ふきゅう)のためか、撤去(てっきょ)されたようですが、沓(くつ)石(いし)はそのまま残置(ざんち)されていました。そして、大正(たいしょう)末期(まっき)の江(え)の島道(しまみち)の新道(しんどう)建設(けんせつ)の折(おり)に道路(どうろ)拡幅(かくふく)に妨(さまた)げがあるとして、藤沢宿(ふじさわしゅく)の人々(ひとびと)により清浄光寺(しょうじょうこうじ)へと運(はこ)ばれたと伝(つた)えられています。 浮世絵(うきよえ)類(るい)に描(えが)かれる藤沢宿(ふじさわしゅく)入(い)り口(ぐち)の鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)で、藤沢宿(ふじさわしゅく)のシンボル的(てき)構造物(こうぞうぶつ)の実物(じつぶつ)資料(しりょう)として、歴史的(れきしてき)価値(かち)が高(たか)いものです。 所有(しょゆう)管理者(かんりしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ)) ■歌川広重(うたがわひろしげ)「狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう)」 大鋸(だいぎり)橋(ばし) (現(げん)遊行寺(ゆぎょうじ)橋(ばし))を渡(わた)って、右(みぎ)が藤沢宿(ふじさわしゅく)。左(ひだり)が江(え)の島(しま)道(みち)。その入(い)り口(ぐち)に鳥居(とりい)があります。 この鳥居(とりい)は明治(めいじ)の大火(たいか)で焼損(しょうそん)しました。それを再建(さいけん)した鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)が指定(してい)文化財(ぶんかざい)です。
江(え)の島道(しまみち)入口(いりぐち)鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)
平成(へいせい)30年(ねん)(2018)2月1日(がつついたち)指定(してい)/養命寺(ようめいじ)の本尊仏(ほんぞんぶつ)で国指定重要文化財(くにしていじゅうようぶんかざい)の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)の眷属仏(けんぞくぶつ)です。十五世紀(じゅうごせいき)(室町時代初期(むろまちじだいしょき))製作(せいさく)と推定(すいてい)される木造仏像(もくぞうぶつぞう)12点(てん)で、おのおの十二支(じゅうにし)の一(ひと)つに充(あ)てられています。像高(ぞうこう)は72.4~78.5cm(台座(だいざ)除(のぞ)く現存部(げんそんぶ))。檜材(ひのきざい)の寄木造(よせぎづくり)、玉眼(ぎょくがん)(水晶(すいしょう)の眼(め))、一部(いちぶ)彩色(さいしき)で、手首(てくび)・持物(じもつ)・頭部(とうぶ)の十二支動物像(じゅうにしどうぶつぞう)などに欠失(けっしつ)がありますが、鎌倉地方(かまくらちほう)の中世彫刻(ちゅうせいちょうこく)らしい写実味(しゃじつみ)を帯(お)びた力強(ちからづよ)い堅実(けんじつ)な中世仏像(ちゅうせいぶつぞう)の遺作(いさく)として貴重(きちょう)です。「亥(い)」の宮昆羅大将像(くびらたいしょうぞう)の像内銘(ぞうないめい)「永正十八年再興(えいしょうじゅうはちねんさいこう)」など、胎内(たいない)の銘文(めいぶん)や修理札(しゅうりふだ)から永正十八年(えいしょうじゅうはちねん)(1521)、宝永六年(ほうえいろくねん)(1709)、元文三年(げんぶんさんねん)(1738)、文政七年(ぶんせいしちねん)(1824)、明治四年(めいじよねん)(1871)の修理年代(しゅうりねんだい)や、それにたずさわった鎌倉(かまくら)や江戸(えど)(日本橋(にほんばし)・神田(かんだ)・浅草(あさくさ))の修理(しゅうり)仏師(ぶっし)の名(な)が明(あき)らかである点(てん)も特筆(とくひつ)されます。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):養命寺(ようめいじ)
木造(もくぞう)十二神将(じゅうにしんしょう)立像(りゅうぞう)
平成(へいせい)29年(ねん)(2017)5月2日(がつふつか)登録(とうろく)/大正(たいしょう)13年(ねん)(1924年(ねん))に「越前屋号合名会社(えちぜんやごうごうどうかぶしきがいしゃ)雨谷商店(あまやしょうてん)」の店舗兼住居(てんぽけんじゅうきょ)として、境川(さかいがわ)にかかる大正橋(たいしょうばし)の近(ちか)くに建築(けんちく)されました。雨谷商店(あまやしょうてん)の前身(ぜんしん)である「越前(えちぜん)や 與左衛門(よざえもん)」は、江戸時代中期(えどじだいちゅうき)から清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))の惣門前(そうもんまえ)で薬品(やくひん)・砂糖(さとう)などを扱(あつか)っていた卸商(おろししょう)で大正(たいしょう)8年(ねん)(1919年(ねん))に店舗兼家屋(てんぽけんかおく)を新(あら)たに建(た)て直(なお)しましたが、大正(たいしょう)12年(ねん)(1923年(ねん))関東大地震(かんとうだいじしん)によって倒壊(とうかい)。翌年(よくとし)に場所(ばしょ)を大正橋(たいしょうばし)の近(ちか)くに移転(いてん)し新築(しんちく)しました。新築(しんちく)に際(さい)し、震災(しんさい)で倒壊(とうかい)した家屋(かおく)の部材(ぶざい)も再利用(さいりよう)されました。雨谷商店(あまやしょうてん)は昭和恐慌(しょうわきょうこう)の影響(えいきょう)で閉店(へいてん)し、建物(たてもの)は商店(しょうてん)の関係者(かんけいしゃ)が購入(こうにゅう)して昭和(しょうわ)13年(ねん)(1938年(ねん))に打戻(うちもどり)へ移築(いちく)。住居(じゅうきょ)として使(つか)われました。その後(ご)、盛岩寺(せいがんじ)が譲(ゆず)り受(う)け平成(へいせい)24年(ねん)(2012年(ねん))に境内(けいだい)へ移築(いちく)されました。大商店(だいしょうてん)の店舗兼住居(てんぽけんじゅうきょ)であったため、規模(きぼ)の大(おお)きさ、硝子(がらす)や貴重(きちょう)な木材(もくざい)を惜(お)しみなく使(つか)っている点(てん)など通常(つうじょう)の民家(みんか)には見(み)られない特色(とくしょく)が多(おお)くあります。出桁(だしげた)や庇(ひさし)の太(ふと)い桁(けた)など、震災復興期(しんさいふっこうき)らしい重厚(じゅうこう)さが見(み)られます。構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造平屋建(もくぞうひらやだて) 鋼板葺(はがねいたぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):大正(たいしょう)13年(ねん)建築(けんちく)、昭和(しょうわ)13年(ねん)移築(いちく)、平成(へいせい)24年(ねん)移築(いちく)。建築面積(けんちくめんせき):138㎡。所有者(しょゆうしゃ):盛岩寺(せいがんじ)
旧(きゅう)越前屋(えちぜんや)雨谷(あまや)商店(しょうてん)店舗(てんぽ)兼(けん)主(しゅ)屋(おく)
平成(へいせい)29年(ねん)((2017)10月(がつ)27日(にち) 登録(とうろく)/石曽根家(いしそね)は、旧東海道(きゅうとうかいどう)沿(ぞ)いで江の島道(えのしまみち)との分岐点(ぶんきてん)のやや西側(にしがわ)に在(あ)り、屋号(やごう)は「マルイシ」で履物屋(はきものや)(下駄屋(げたや))を営(いとな)んでいました。昭和(しょうわ)8年刊行(ねんかんこう)の『現在(げんざい)の藤沢(ふじさわ)』によれば、創業者(そうぎょうしゃ)の達次氏(たつじし)は明治(めいじ)11年(ねん)鵠沼(くげぬま)で生(う)まれ、藤沢(ふじさわ)の履物屋(はきものや)の老舗(しにせ)・石上(いしかみ)の宮澤辰五郎氏(みやざわたつごろうし)の弟子(でし)となり東京(とうきょう)・横浜(よこはま)で修行(しゅぎょう)したのち、明治(めいじ)34年(ねん)に藤沢(ふじさわ)に戻(もど)って店(みせ)を開(ひら)いたとされています。また同書(どうしょ)には「履物業界(はきものぎょうかい)(中略(ちゅうりゃく))、新興気鋭(しんしんきえい)の業者(ぎょうしゃ)としては西(にし)に台町(だいまち)の松本屋(まつもとや)、中央(ちゅうおう)に仲(なか)の町(ちょう)の高倉屋(たかくらや)、東(ひがし)に旅籠町(はたごまち)の石曽根(いしそね)等(とう)ありて、互(たが)いにその覇(は)を争(あらそ)ふに似(に)たり」ともあり、多(おお)くの職人(しょくにん)を抱(かか)えた藤沢有数(ふじさわゆうすう)の履物屋(はきものや)でありました。創業当初(そうぎょうとうしょ)は江の島道沿(えのしまみちぞ)いに店(みせ)を構(かま)えていましたが、大正(たいしょう)12年(ねん)の関東大地震(かんとうおおじしん)の際(さい)、店舗(てんぽ)などが境川(さかいがわ)へ崩落(ほうらく)する被害(ひがい)に遭(あ)い、震災後(しんさいご)に現在地(げんざいち)に移転(いてん)。 現存(げんそん)する店舗(てんぽ)兼(けん)主(しゅ)屋(おく)は棟札(むなふだ)などの史料(しりょう)を欠(か)くが、建物(たてもの)登記(とうき)や刊行(かんこう)物(ぶつ)の記述(きじゅつ)から大正(たいしょう)13年(ねん)の竣工(しゅんこう)と判断(はんだん)できる。 構造(こうぞう)・形式(けいしき):木造(もくぞう)2階建(かいだて) 鉄板葺(てっぱんぶき)。建設(けんせつ)の年代(ねんだい):大正(たいしょう)13年(ねん)建築(けんちく)、昭和(しょうわ)42年(ねん)改修(かいしゅう)。建築面積(けんちくめんせき):115㎡。所有者(しょゆうしゃ):個人(こじん)。
旧(きゅう)石曽根(いしそね)商店(しょうてん)店舗(てんぽ)兼(けん)主(しゅ)屋(おく)