Fujisawa Net Museum

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昭和(しょうわ)52(ねん)(1977)4(がつ)13(にち)指定(してい)板碑型(いたびがた)総高(そうこう)165㎝/「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の七字題目(しちじだいもく)と「帝釈天王(たいしゃくてんおう)」を本尊(ほんぞん)(きざ)日蓮宗系(にちれんしゅうけい)庚申供養塔(こうしんくようとう)です。造立銘(ぞうりゅうめい)時期(じき)(こと)なっており、「寛文願主(かんぶんがんしゅ)」に鈴木伊左衛門(すずきいざえもん)以下(いか)4(めい)、「天保十三寅天六月造立(てんぽうじゅうさんとらてんむつきぞうりゅう)」に飯森七左衛門(いいもりななざえもん)以下(いか)9(めい)(きざ)まれています。大庭(おおば)寛文(かんぶん)12(ねん)庚申供養塔(こうしんくようとう)同系板碑型(どうけいいたびがた)城南(じょうなん)寛文(かんぶん)10(ねん)庚申供養塔(こうしんくようとう)のように、正面向(しょうめんむ)基礎上(きそじょう)(べつ)台座(だいざ)(つく)()し、その(うえ)三猿像(さんえんぞう)()せる手法(しゅほう)など、全体的構造(ぜんたいてきこうぞう)形式(けいしき)(あき)らかに寛文期(かんぶんき)のものに類似(るいじ)しています。この石塔(せきとう)寛文年間(かんぶんねんかん)(1661-73)に(つく)られ、銘文(めいぶん)にあるように天保(てんぽう)13(ねん)(1842)に修造(しゅうぞう)されたと(かんが)えられます。所在(しょざい)片瀬(かたせ)

寛文(かんぶん)庚申(こうしん)供養(くよう)(とう)

昭和(しょうわ)59(ねん)(1984)3(がつ)26(にち)指定(してい)/(中尊(ちゅうそん))寄木造彩色玉眼(よせぎづくりさいしきぎょくがん)像高(ぞうこう)88.0㎝。(脇侍(わきじ))寄木造彩色彫眼(よせぎづくりさいしきちょうがん)像高(ぞうこう)39.3㎝。(脇侍(わきじ))寄木造彩色彫眼(よせぎづくりさいしきちょうがん)像高(ぞうこう)39.1㎝/中尊(ちゅうそん)青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)()(あお)く、()は3つ、(きば)をむき()し、(あたま)髑髏(どくろ)(いただ)き、(へび)をまとい、()は6(ぽん)邪鬼(じゃき)()みつけ、悪鬼(あっき)(はら)形相(ぎょうそう)で、脇侍(わきじ)二童子(にどうし)(したが)えています。制作(せいさく)江戸前期(えどぜんき)推定(すいてい)され、古形(こけい)(つた)える姿(すがた)木彫(きぼ)りとしても(すぐ)れ、庚申堂(こうしんどう)の60(ねん)一度(いちど)開帳(かいちょう)厳守(げんしゅ)してきたことが保存状態(ほぞんじょうたい)良好(りょうこう)(たも)っています。前回(ぜんかい)のご開帳(かいちょう)は7回目(かいめ)昭和(しょうわ)55(ねん)(1980)でした。所在(しょざい)藤沢(ふじさわ)庚申堂(こうしんどう)

木造(もくぞう)青面金剛(しょうめんこんごう)(およ)(りょう)脇侍(わきじ)立像(りゅうぞう)

昭和(しょうわ)63(ねん)(1988)12(がつ)16(にち)指定(してい)鵠沼皇大神宮(くげぬまこうだいじんぐう)の8(がつ)17(にち)祭礼(さいれい)人形(にんぎょう)山車(だし)です。明治中頃(めいじなかごろ)皇大神宮(こうたいじんぐう)の9氏子町内会(うじこちょうないかい)がそれぞれ製作(せいさく)したもので、三層式(さんそうしき)総高(そうこう)(やく)8mで人形(にんぎょう)(かざ)られてます。かつては祭礼日(さいれいじつ)各町内(かくちょうない)から囃子(はやし)(おと)とともに人形山車(にんぎょうだし)(あつ)まって参道(さんどう)整列(せいれつ)していました。整列(せいれつ)(じゅん)は、宮前(みやまえ)那須与一(なすのよいち)上村(うえむら)源頼朝(みなもとのよりとも)清水(しみず)神武天皇(じんむてんのう)宿庭(しゅくにわ)源義経(みなもとのよしつね)苅田(かりた)徳川家康(とくがわいえやす)大東(おおひがし)楠正成(くすのきまさしげ)中東(なかひがし)浦島太郎(うらしまたろう)(はら)日本武尊(やまとたける)堀川(ほりかわ)仁徳(にんとく)天皇(てんのう)で、以前(いぜん)宿(しゅく)(にわ)牛若丸(うしわかまる)鞍馬天狗(くらまてんぐ)でした。9()境内(けいだい)(あつ)まる(ころ)拝殿(はいでん)では湯立神楽(ゆたてかぐら)()指定(してい)文化財(ぶんかざい))が(おこ)なわれます。この祭礼(さいれい)昭和(しょうわ)52(ねん)(1977)選定(せんてい)「かながわの民俗芸能(みんぞくげいのう)50(せん)」に()げられています。
所管(しょかん)鵠沼皇大神宮(くげぬまこうだいじんぐう)人形山車連合保存会(にんぎょうだしれんごうほぞんかい)

鵠沼(くげぬま)皇大神宮(こうたいじんぐう)人形(にんぎょう)山車(だし)9(だい)

平成(へいせい)4(ねん)(1992)2月1日(がつついたち)指定(してい)尖頭扁平型(せんとうへんぺいがた)(上下欠失(じょうげけっしつ))、総高(そうこう)70.0㎝、変成岩(へんせいがん)(緑泥片岩(りょくでいへんがん))/銘文(めいぶん)から、応永(おうえい)26(ねん)(1419)覚阿(かくあ)造立(ぞうりゅう)とわかります。月輪内(がちりんない)阿弥陀三尊(あみださんぞん)種子(しゅし)(しめ)梵字(ぼんじ)(きざ)まれ、「右所趣者帰弥陀法身擬法界大智依即得往生金言奨(みぎおもむくところは、みだのしまうしんにきしく、ほうかいだいちになぞらえ、よってそくおうしょうのこんげんのしょう)」の銘文(めいぶん)は、「この卒塔婆(そとうば)趣旨(しゅし)とするところは阿弥陀仏(あみだぶつ)法身(ほっしん)帰依(きえ)し、法界大智(ほうかいだいち)(真言密教(しんごんみっきょう))の心意(しんい)覚得(かくとく)したことに()って即往生(そくおうじょう)できる」という意味(いみ)です。板碑(いたび)は、12~16世紀(せいき)流行(りゅうこう)した卒塔婆(そとうば)一種(いっしゅ)で、一般(いっぱん)浄土教的(じょうどきょうてき)色彩(しきさい)のものが(おお)いのですが、この板碑(いたび)密教色(みっきょういろ)()特徴(とくちょう)()()わせています。所在(しょざい)打戻(うちもどり)

応永(おおえい)26年(にじゅうろくねん)板碑(いたび)1基(いちき)

平成(へいせい)4(ねん)(1992)2月1日(がつついたち)指定(してい)総高(そうだか)45.0㎝、火成岩(かせいがん)(安山岩(あんざんがん))(せい)狛犬(こまいぬ)社前(やしろまえ)悪魔除(あくまよ)けのような意味(いみ)一対阿吽(いっついあうん)(かたち)をとる勇猛(ゆうもう)風貌(ふうぼう)のものが(おお)奉納(ほうのう)されます。この2(たい)()には貞享(じょうきょう)3(ねん)(1686)、(むね)長後村(ちょうごむら)市内長後(しないちょうご)あたり)中村氏(なかむらし)のおち()()むらという女性(じょせい)造立銘(ぞうりゅうめい)(きざ)まれています。一般(いっぱん)には男子氏子(だんしうじこ)講中(こうじゅう)などの奉納(ほうのう)(おお)(なか)注目(ちゅうもく)すべきものです。両手(りょうて)()(ほど)小型(こがた)で、奉納者(ほうのうしゃ)愛玩用(あいがんよう)、また分身(ぶんしん)として、無病息災(むびょうそくさい)祈願(きがん)する守護神的(しゅごしんてき)(おも)いを()めて奉納(ほうのう)したのではないかと(かんが)えられます。所在(しょざい)長後(ちょうご)天満宮(てんまんぐう)

貞享(じょうきょう)3年(さんねん)石造(せきぞう)狛犬(こまいぬ) 一対(いっつい)



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