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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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昭和(しょうわ)52年(ねん)(1977)4月(がつ)13日(にち)指定(してい)/舟型光背型(ふながたこうはいがた)、総高(そうこう)97.0㎝、火成岩製(かせいがんせい)/銘文(めいぶん)から、寛文(かんぶん)4年(ねん)(1664)村岡(むらおか)の講中(こうじゅう)12名(めい)による造立(ぞうりゅう)とわかります。下方(かほう)を基礎様(きそざま)に造(つく)り出(だ)して全体的(ぜんたいてき)な安定感(あんていかん)を工夫(くふう)し、塔身中央(とうしんちゅうおう)に帝釈天(たいしゃくてん)造立(ぞうりゅう)の発願文(ほつがんもん)と年記(ねんき)を刻(きざ)んでいます。日蓮宗系(にちれんしゅうけい)の庚申供養塔(こうしんくようとう)>は、この塔(とう)のように帝釈天(たいしゃくてん)の尊号(そんごう)を標識(ひょうしき)とした例(れい)も少(すく)なくありません。帝釈天(たいしゃくてん)と青面金剛(しょうめんこんごう)との結合(けつごう)は、青面金剛(しょうめんこんごう)が帝釈天(たいしゃくてん)の使者(ししゃ)として仮(かり)の姿(すがた)をとって現(あらわ)れるという考(かんが)え方(かた)によるものです。所在(しょざい):村岡東(むらおかひがし)
寛文(かんぶん)4年(ねん)庚申(こうしん)供養(くよう)塔(とう)
昭和(しょうわ)52年(ねん)(1977)4月(がつ)13日(にち)指定(してい)/舟型光背型(ふながたこうはいがた)、総高(そうこう)69㎝、火成岩製(かせいがんせい)/銘文(めいぶん)から、寛文(かんぶん)6年(ねん)(1666)の造立(ぞうりゅう)とわかります。塔身前面(とうしんぜんめん)に花頭框(かとうかまち)を彫(ほ)りこみ、三(みっ)つの花頭下(かとうか)に造立銘文(ぞうりゅうめいぶん)を1行(ぎょう)づつを当(あ)て刻(きざ)み、その下(した)に親(した)しみやすい表情(ひょうじょう)の三猿像(さんえんぞう)が正面向(しょうめんむ)きに陽刻(ようこく)されています。梵字(ぼんじ)ウーンは、ここでは青面金剛(しょうめんこんごう)の種子(しゅし)(密教(みっきょう)で仏(ほとけ)・菩薩(ぼさつ)などを標示(ひょうじ)する梵字(ぼんじ))に充(あ)てられています。所在(しょざい):辻堂(つじどう)・宝珠寺(ほうしゅじ)
寛文(かんぶん)6年(ねん)庚申(こうしん)供養(くよう)塔(とう)
昭和(しょうわ)52年(ねん)(1977)4月(がつ)13日(にち)指定(してい)/板碑型(いたびがた)、総高(そうこう)165㎝/「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の七字題目(しちじだいもく)と「帝釈天王(たいしゃくてんおう)」を本尊(ほんぞん)に刻(きざ)む日蓮宗系(にちれんしゅうけい)の庚申供養塔(こうしんくようとう)です。造立銘(ぞうりゅうめい)は時期(じき)が異(こと)なっており、「寛文願主(かんぶんがんしゅ)」に鈴木伊左衛門(すずきいざえもん)以下(いか)4名(めい)、「天保十三寅天六月造立(てんぽうじゅうさんとらてんむつきぞうりゅう)」に飯森七左衛門(いいもりななざえもん)以下(いか)9名(めい)が刻(きざ)まれています。大庭(おおば)の寛文(かんぶん)12年(ねん)庚申供養塔(こうしんくようとう)と同系板碑型(どうけいいたびがた)、城南(じょうなん)の寛文(かんぶん)10年(ねん)庚申供養塔(こうしんくようとう)のように、正面向(しょうめんむ)き基礎上(きそじょう)に別(べつ)の台座(だいざ)を造(つく)り出(だ)し、その上(うえ)に三猿像(さんえんぞう)を乗(の)せる手法(しゅほう)など、全体的構造(ぜんたいてきこうぞう)・形式(けいしき)は明(あき)らかに寛文期(かんぶんき)のものに類似(るいじ)しています。この石塔(せきとう)は寛文年間(かんぶんねんかん)(1661-73)に造(つく)られ、銘文(めいぶん)にあるように天保(てんぽう)13年(ねん)(1842)に修造(しゅうぞう)されたと考(かんが)えられます。所在(しょざい):片瀬(かたせ)
寛文(かんぶん)庚申(こうしん)供養(くよう)塔(とう)
昭和(しょうわ)59年(ねん)(1984)3月(がつ)26日(にち)指定(してい)/(中尊(ちゅうそん))寄木造彩色玉眼(よせぎづくりさいしきぎょくがん)、像高(ぞうこう)88.0㎝。(脇侍(わきじ))寄木造彩色彫眼(よせぎづくりさいしきちょうがん)、像高(ぞうこう)39.3㎝。(脇侍(わきじ))寄木造彩色彫眼(よせぎづくりさいしきちょうがん)、像高(ぞうこう)39.1㎝/中尊(ちゅうそん)は青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)で身(み)は青(あお)く、眼(め)は3つ、牙(きば)をむき出(だ)し、頭(あたま)に髑髏(どくろ)を頂(いただ)き、蛇(へび)をまとい、手(て)は6本(ぽん)、邪鬼(じゃき)を踏(ふ)みつけ、悪鬼(あっき)を払(はら)う形相(ぎょうそう)で、脇侍(わきじ)の二童子(にどうし)を従(したが)えています。制作(せいさく)は江戸前期(えどぜんき)と推定(すいてい)され、古形(こけい)を伝(つた)える姿(すがた)は木彫(きぼ)りとしても秀(すぐ)れ、庚申堂(こうしんどう)の60年(ねん)に一度(いちど)の開帳(かいちょう)を厳守(げんしゅ)してきたことが保存状態(ほぞんじょうたい)を良好(りょうこう)に保(たも)っています。前回(ぜんかい)のご開帳(かいちょう)は7回目(かいめ)昭和(しょうわ)55年(ねん)(1980)でした。所在(しょざい):藤沢(ふじさわ)・庚申堂(こうしんどう)
木造(もくぞう)青面金剛(しょうめんこんごう)及(およ)び両(りょう)脇侍(わきじ)立像(りゅうぞう)
昭和(しょうわ)63年(ねん)(1988)12月(がつ)16日(にち)指定(してい)/鵠沼皇大神宮(くげぬまこうだいじんぐう)の8月(がつ)17日(にち)祭礼(さいれい)の人形(にんぎょう)山車(だし)です。明治中頃(めいじなかごろ)に皇大神宮(こうたいじんぐう)の9氏子町内会(うじこちょうないかい)がそれぞれ製作(せいさく)したもので、三層式(さんそうしき)・総高(そうこう)約(やく)8mで人形(にんぎょう)が飾(かざ)られてます。かつては祭礼日(さいれいじつ)に各町内(かくちょうない)から囃子(はやし)の音(おと)とともに人形山車(にんぎょうだし)が集(あつ)まって参道(さんどう)に整列(せいれつ)していました。整列(せいれつ)の順(じゅん)は、宮前(みやまえ)の那須与一(なすのよいち)、上村(うえむら)の源頼朝(みなもとのよりとも)、清水(しみず)の神武天皇(じんむてんのう)、宿庭(しゅくにわ)の源義経(みなもとのよしつね)、苅田(かりた)の徳川家康(とくがわいえやす)、大東(おおひがし)の楠正成(くすのきまさしげ)、中東(なかひがし)の浦島太郎(うらしまたろう)、原(はら)の日本武尊(やまとたける)、堀川(ほりかわ)の仁徳(にんとく)天皇(てんのう)で、以前(いぜん)宿(しゅく)庭(にわ)は牛若丸(うしわかまる)と鞍馬天狗(くらまてんぐ)でした。9基(き)が境内(けいだい)に集(あつ)まる頃(ころ)に拝殿(はいでん)では湯立神楽(ゆたてかぐら)(市(し)指定(してい)文化財(ぶんかざい))が行(おこ)なわれます。この祭礼(さいれい)は昭和(しょうわ)52年(ねん)(1977)選定(せんてい)「かながわの民俗芸能(みんぞくげいのう)50選(せん)」に挙(あ)げられています。所管(しょかん):鵠沼皇大神宮(くげぬまこうだいじんぐう)人形山車連合保存会(にんぎょうだしれんごうほぞんかい)
鵠沼(くげぬま)皇大神宮(こうたいじんぐう)人形(にんぎょう)山車(だし)9台(だい)
平成(へいせい)4年(ねん)(1992)2月1日(がつついたち)指定(してい)/笠塔婆型(かさとうばがた)、総高(そうだか)120.5㎝、火成岩(かせいがん)(安山岩(あんざんがん))製(せい)/塔身(とうしん)に六臂(ろっぴ)(6本腕(ぽんうで))の青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が彫(ほ)られています。銘文(めいぶん)から、元禄(げんろく)2年(ねん)(1689)菖蒲沢(しょうぶざわ)の地頭(じとう)木村氏(きむらし)の建立(こんりゅう)とわかります。木村氏(きむらし)は江戸幕府(えどばくふ)の旗本(はたもと)で、天正(てんしょう)18年(ねん)(1590)に菖蒲沢村(しょうぶさわむら)100石(せき)を拝領(はいりょう)し、幕末(ばくまつ)に及(およ)んでいます。村民(そんみん)と親密(しんみつ)な結(むす)びつきを持(も)ち、その結果(けっか)として、村内(そんない)の安全(あんぜん)・村民(そんみん)の息災(そくさい)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願(きがん)して造立(ぞうりゅう)したか、と考(かんが)えられる珍(めずら)しいものです。所在(しょざい):菖蒲沢(しょうぶざわ)
元禄(げんろく)2年(ねん)庚申(こうしん)供養(くよう)塔(とう)
平成(へいせい)4年(ねん)(1992)2月1日(がつついたち)指定(してい)/尖頭扁平型(せんとうへんぺいがた)(上下欠失(じょうげけっしつ))、総高(そうこう)70.0㎝、変成岩(へんせいがん)(緑泥片岩(りょくでいへんがん))/銘文(めいぶん)から、応永(おうえい)26年(ねん)(1419)覚阿(かくあ)の造立(ぞうりゅう)とわかります。月輪内(がちりんない)に阿弥陀三尊(あみださんぞん)の種子(しゅし)を示(しめ)す梵字(ぼんじ)が刻(きざ)まれ、「右所趣者帰弥陀法身擬法界大智依即得往生金言奨(みぎおもむくところは、みだのしまうしんにきしく、ほうかいだいちになぞらえ、よってそくおうしょうのこんげんのしょう)」の銘文(めいぶん)は、「この卒塔婆(そとうば)の趣旨(しゅし)とするところは阿弥陀仏(あみだぶつ)の法身(ほっしん)に帰依(きえ)し、法界大智(ほうかいだいち)(真言密教(しんごんみっきょう))の心意(しんい)を覚得(かくとく)したことに依(よ)って即往生(そくおうじょう)できる」という意味(いみ)です。板碑(いたび)は、12~16世紀(せいき)に流行(りゅうこう)した卒塔婆(そとうば)の一種(いっしゅ)で、一般(いっぱん)に浄土教的(じょうどきょうてき)色彩(しきさい)のものが多(おお)いのですが、この板碑(いたび)は密教色(みっきょういろ)の濃(こ)い特徴(とくちょう)を持(も)ち合(あ)わせています。所在(しょざい):打戻(うちもどり)
応永(おおえい)26年(にじゅうろくねん)板碑(いたび)1基(いちき)
平成(へいせい)4年(ねん)(1992)2月1日(がつついたち)指定(してい)/総高(そうだか)45.0㎝、火成岩(かせいがん)(安山岩(あんざんがん))製(せい)/狛犬(こまいぬ)は社前(やしろまえ)に悪魔除(あくまよ)けのような意味(いみ)で一対阿吽(いっついあうん)の形(かたち)をとる勇猛(ゆうもう)な風貌(ふうぼう)のものが多(おお)く奉納(ほうのう)されます。この2体(たい)の背(せ)には貞享(じょうきょう)3年(ねん)(1686)、胸(むね)に長後村(ちょうごむら)(市内長後(しないちょうご)あたり)中村氏(なかむらし)のおち世(よ)・支(し)むらという女性(じょせい)の造立銘(ぞうりゅうめい)が刻(きざ)まれています。一般(いっぱん)には男子氏子(だんしうじこ)・講中(こうじゅう)などの奉納(ほうのう)が多(おお)い中(なか)で注目(ちゅうもく)すべきものです。両手(りょうて)に乗(の)る程(ほど)に小型(こがた)で、奉納者(ほうのうしゃ)の愛玩用(あいがんよう)、また分身(ぶんしん)として、無病息災(むびょうそくさい)を祈願(きがん)する守護神的(しゅごしんてき)な思(おも)いを込(こ)めて奉納(ほうのう)したのではないかと考(かんが)えられます。所在(しょざい):長後(ちょうご)・天満宮(てんまんぐう)
貞享(じょうきょう)3年(さんねん)石造(せきぞう)狛犬(こまいぬ) 一対(いっつい)