Fujisawa Net Museum

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昭和(しょうわ)51(ねん)(1976)4(がつ) 15 (にち)指定(してい)
(しゅ)として縄文後期(じょうもんこうき)貝塚(かいづか)(ともな)集落跡(しゅうらくあと)です。昭和(しょうわ)34-36(ねん)(1959-61)に3回(さんかい)にわたり部分的(ぶぶんてき)ながら発掘調査(はっくつちょうさ)(おこな)われ、相模湾沿岸(さがみわんえんがん)数少(かずすく)ない貴重(きちょう)貝塚(かいづか)であることが確認(かくにん)されました。この地域(ちいき)貝塚(かいづか)はどこも貝層(かいそう)(すく)なく、西富貝塚(にしとみかいづか)30種以上(さんじゅうしゅいじょう)(かい)()つかっているものの、ハマグリ・ダンペイキサゴがそのほとんどを()めています。また貝層(かいそう)(した)から竪穴式(たてあなしき)平地式(へいちしき)敷石(しきいし)などの住居跡(じゅうきょあと)確認(かくにん)され、(なか)でも敷石遺構(しきいしいこう)海岸地帯(かいがんちたい)で、しかも貝塚(かいづか)(ともな)遺跡(いせき)での発見例(はっけんれい)数少(かずすく)なく、西富貝塚(にしとみかいづか)特色(とくしょく)といえます。出土(しゅつど)した土器類(どきるい)多様(たよう)でしかも多量(たりょう)発見(はっけん)され、この集落跡(しゅうらくあと)時代決定(じだいけってい)(おお)きな役割(やくわり)()たしました。所在(しょざい)所管(しょかん)西富(にしとみ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)遊行寺(ゆぎょうじ)

西富(にしとみ)貝塚(かいづか)

昭和(しょうわ)52(ねん)(1997)4(がつ)13(にち)指定(してい)横穴墓(よこあなぼ)とは丘陵(きゅうりょう)斜面(しゃめん)横穴(よこあな)()って(つく)った(はか)で、5世紀後半(せいきこうはん)から8世紀(せいき)(おお)(つく)られ、一般(いっぱん)(ぐん)をなして存在(そんざい)します。この横穴墓群(よこあなぼぐん)片瀬丘陵(かたせきゅうりゅう)にある100基以上(きいじょう)横穴墓群中(よこあなぼぐんちゅう)(ひと)つで、(ひつぎ)安置(あんち)する玄室(げんしつ)内部(ないぶ)(たか)棺座(かんざ)(もう)けたり、棺座上(かんざじょう)()りくぼめて造付石棺(つくりつけせっかん)としたりするものが(おお)見受(みう)けられ、8世紀頃(せいきごろ)中心(ちゅうしん)とした時期(じき)造営(ぞうえい)とされています。昭和(しょうわ)43(ねん)(1968)に(おこ)なわれた発掘調査(はっくつちょうさ)で、当初(とうしょ)開口(かいこう)していた6基(ろっき)横穴古墳(よこあなこふん)(くわ)え、埋没(まいぼつ)していた2()発見(はっけん)され、土師器片(はじきへん)須恵器(すえきへん)中近世(ちゅうきんせい)のカワラケ(へん)砥石(といし)骨片(こっぺん)出土(しゅつど)しました。所在(しょざい)所管(しょかん)川名(かわな)神光寺(じんこうじ)

神光寺(じんこうじ)横穴(よこあな)古墳(こふん)(横穴墓(よこあなぼ)(ぐん)

平成(へいせい)4(ねん)(1992)2月1日(がつついたち)指定(してい)浄土院(じょうどいん)歴代住職(れきだいじゅうしょく)墓碑(ぼひ)は9()あり、その(うち)の5()筆子塚(ふでこづか)です。江戸時代(えどじだい)慣習(かんしゅう)として、(てら)住職(じゅうしょく)専住(せんじゅう)(まれ)転住(てんじゅう)()(かえ)し、当寺(とうじ)()くなった住職(じゅうしょく)のみが(ほうむ)られました。寛政(かんせい)9(ねん)(1797)に(ぼっ)した輪誉(りんよ)から25世勲誉(せいくんよ)までの約半世紀(やくはんせいき)、5(だい)にわたって寺子屋(てらこや)継続(けいぞく)されたのは(めずら)しいことです。筆子塚(ふでこづか)とは、江戸時代(えどじだい)寺子屋(てらこや)(まな)んだ幼童(ようどう)(筆子(ふでこ))が、()報恩(ほうおん)のために墓碑(ぼひ)()てて供養(くよう)したものです。寺子屋教育(てらこやきょういく)社会奉仕(しゃかいほうし)(ひと)つであると同時(どうじ)に、住職(じゅうしょく)生活費(せいかつひ)にあてる目的(もくてき)もあったようです。所在(しょざい)所管(しょかん)菖蒲沢(しょうぶさわ)浄土院(じょうどいん)

浄土院(じょうどいん)筆子塚(ふでこづか)(ぐん)5基(ごき)



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