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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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平成(へいせい)8年(ねん)(1996)3月1日(がつついたち)指定(してい)/10月(がつ)28日(にち)の白旗神社祭礼(しらはたじんじゃさいれい)や8月(がつ)17日(にち)の皇大神宮祭礼(こうたいじんぐうさいれい)で継承(けいしょう)される神事芸能(しんじげいのう)です。湯立て(ゆたて)は、大釜(おおかま)に沸(わ)かした熱湯(ねっとう)に笹(ささ)を浸(ひた)して、舞(ま)いながら周囲(しゅうい)の人(ひと)に振(ふ)りかけて浄(きよ)める神事(しんじ)です。鎌倉神楽(かまくらかぐら)とも呼(よ)ばれるように、鎌倉(かまくら)の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の神楽男(かぐらおとこ)が伝承(でんしょう)し、次第(しだい)に近隣(きんりん)に定着(ていちゃく)したものと考(かんが)えられ、江戸中期(えどちゅうき)の創世(そうせい)とされています。現在(げんざい)、①打囃子(うちばやし)②初能(はつのう)③御祓(おはらい)④御幣招(ごへいまねき)⑤湯上(ゆのかみ)⑥中入(なかいり)⑦掻湯(かきゆ)⑧大散供(だいさんぐ)⑨笹の舞い(ささのまい)⑩弓祓(ゆみはらい)⑪剣舞(けんぶ)・毛止機(もどき)、が行(おこな)われます。所管(しょかん):藤沢湯立神楽保存会(ふじさわゆだてかぐらほぞんかい)(白旗神社(しらはたじんじゃ))
湯立神楽(ゆたてかぐら)
平成(へいせい)12年(ねん)(2000)7月7日(がつなのか)指定(してい)/この祭囃子(まつりばやし)は江戸時代(えどじだい)に始(はじ)まったと伝(つた)えられ、下土棚白山神社(しもつちだな はくさんじんじゃ)を中心(ちゅうしん)に継承(けいしょう)されています。構成(こうせい)は、総(そう)リードの笛1人(ふえひとり)・大太鼓1人(おおだいこひとり)・小太鼓2人(こだいこふたり)・すり鉦1人(かねひとり)の5人(にん)が基本(きほん)で、獅子舞(ししまい)(2人立(ふたりだ)ち)やおかめ・ひょっとこ等(とう)の面(めん)を使(つか)った踊(おど)りが伴(ともな)います。横浜(よこはま)のシタマチバヤシの系統(けいとう)と考(かんが)えられていますが、曲目(きょくもく)は「ハヤ」「カマクラ」「シチョウメ」「オカザキ」の他(ほか)、横浜(よこはま)ですでに滅(ほろ)んでいる「キリン」「カッコ」や難曲(なんきょく)とされる「カンダマル」を伝(つた)えています。現在(げんざい)は子供(こども)も加入(かにゅう)し、定期的(ていきてき)な練習(れんしゅう)で技術向上(ぎじゅつこうじょう)・後継者育成(こうけいしゃいくせい)をはかり、様々(さまざま)な行事(ぎょうじ)にも出演(しゅつえん)しています。所管(しょかん):下土棚白山神社獅子舞保存会(しもつちだなはくさんじんじゃししまいほぞんかい)
下土棚(しもつちだな)祭(まつり)ばやし
平成(へいせい)26年(ねん)(2015)10月(がつ)25日(にち)指定(してい)/農作業(のうさぎょう)にともなう労働唄(ろうどうか)の一つ(ひとつ)で、神奈川県(かながわけん)と東京都(とうきょうと)の南部(なんぶ)に限定的(げんていてき)に分布(ぶんぷ)します。昭和(しょうわ)53年(ねん)(1978)に「かながわの歌(うた)50選(せん)」選定(せんてい)されています。唄(うた)の拍数(はくすう)と焼米(やきごめ)を搗(つ)く拍数(はくすう)が異(こと)なるため習得(しゅうとく)が難(むずか)しく、地域(ちいき)ごとに伝(つた)えられてきたため、それぞれ調子(ちょうし)・歌詞(かし)が異(こと)なります。5月中旬頃(がつちゅうじゅんごろ)、余(あま)った籾(もみ)を蒸(む)して煎(い)り、臼(うす)に入(い)れ三本(さんぼん)の杵(きね)で搗(つ)く際(さい)に、搗(つ)く調子(ちょうし)をそろえるために唄(うた)う唄(うた)です。特(とく)に若(わか)い娘(むすめ)のいる家(いえ)に若者(わかもの)が集(つど)い、男女交流(だんじょこうりゅう)の一つ(ひとつ)として行(おこな)われました。搗(つ)きあげた米(こめ)は、大豆(だいず)(煎(い)って皮(かわ)を除(のぞ)いたもの)を混(ま)ぜて神供(かみぞな)えしたり、間食(かんしょく)としました。所管(しょかん):遠藤農作業唄保存会(えんどうのうさぎょううたほぞんかい)
遠藤(えんどう)焼(やき)米(ごめ)つき唄(うた)・臼(うす)ひき唄(うた)
大正(たいしょう)15年(ねん)(1926)10月20日(がつはつか)指定(してい)/板碑型(いたびがた)、尖頭角柱石塔(せんとうかくちゅうせきとう)、総高(そうだか)126.5㎝、幅(はば)28.2㎝/「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の6文字(もじ)が大(おお)きく刻(きざ)まれています。応永(おうえい)23年(ねん)(1416)、鎌倉(かまくら)を中心(ちゅうしん)に足利持氏(あしかがもちうじ)打倒(だとう)のため上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱(らん)が起(お)こり、多数(たすう)の将兵(しょうへい)・軍馬(ぐんば)が血(ち)に染(そ)まりました。この石塔(せきとう)は、乱(らん)の鎮定後(ちんていご)、三回忌(さんかいき)にあたる応永(おうえい)25年(ねん)(1418)に遊行(ゆぎょう)14代(だい)太空上人(たいくうしょうにん)が建(た)てた供養塔(くようとう)です。この兵乱(へいらん)で落命(らくめい)した「敵御方(てきみかた)」の人畜亡魂(じんちくぼうこん)がことごとく浄土往生(じょうどおうじょう)するよう、この塔婆(とうば)の前(まえ)を通(とお)り過(す)ぎる僧俗(そうぞく)は十念(じゅうねん)(南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を10回(かい)唱(とな)えるをしてほしい、と刻(きざ)まれています。所在(しょざい)・所管(しょかん):西富(にしとみ)・清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))
藤沢(ふじさわ)敵(てき)御方(みかた)供養(くよう)塔(とう)
昭和(しょうわ)35年(ねん)(1960)10月4日(がつよっか)指定(してい)(それ以前(いぜん)は国指定(くにしてい))/周囲約(しゅういやく)4㎞、面積約(めんせき)0.37k㎡、標高約(ひょうこうやく)60.4㎞/江(え)の島(しま)は凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)から成(な)る陸(りく)けい島(とう)で、海蝕洞窟(かいしょくどうくつ)、奇岩(きがん)、奇嘴(きし)が島(しま)の裾(すそ)を巡(めぐ)っています。第三紀(だいさんき)(6千万(せんまん)-100万年前(まんねんまえ))中頃(なかごろ)から第四紀(だいよんき)沖積世(ちゅうせきせい)(1万年前(まんねんまえ))初(はじ)め頃(ごろ)までに沈下(ちんか)~隆起(りゅうき)~浸食(しんしょく)を繰(く)り返(かえ)し、片瀬丘陵(かたせきゅうりゅう)の南端(なんたん)が切(き)り離(はな)され形成(けいせい)されました。山上(さんじょう)に縄文早期(じょうもんそうき)の遺跡(いせき)が発見(はっけん)されていますが、主(おも)に記録(きろく)に現(あら)われるのは鎌倉時代(かまくらじだい)からです。寿永元年(じゅえいがんねん)(1182)源頼朝(みなもとのよりとも)が弁財天(べざいてん)を勧請(かんじょう)してから武士(ぶし)の信仰(しんこう)を集(あつ)め、江戸時代(えどじだい)には庶民(しょみん)の間(あいだ)にも弁才天(べざいてん)信仰(しんこう)が盛(さか)んとなり、江戸(えど)からの遊山(ゆさん)の地(ち)としても賑(にぎ)わいました。手(て)が届(とど)きそうな海上(かいじょう)にポッカリと浮(う)かぶ姿(すがた)は美(うつく)しく、伊豆大島(いずおおしま)・三浦(みうら)・房総半島(ぼうそうはんとう)・天城(あまぎ)・箱根(はこね)・富士山(ふじさん)を見渡(みわた)すことができます。
江ノ島(えのしま)
昭和(しょうわ)38年(ねん)(1963)3月(がつ)25日(にち)指定(してい)/杉山検校(すぎやまけんぎょう):慶長(けいちょう)15-元禄(げんろく)7年(ねん)(1610-94)。実名(じつめい)は和一(わいち)。伊勢国(いせのくに)(三重県(みえけん))生(う)まれ。幼(おさな)い時(とき)に失明(しつめい)し、鍼術(しんじゅつ)を志(こころざ)して江戸(えど)の検校(けんぎょう)山瀬琢一(やませたくいち)、その後(ご)京都(きょうと)の入江豊明(いりえよりあき)に師事(しじ)しました。その過程(かてい)で管鍼術(かんしんじゅつ)を創案(そうあん)したといわれています。徳川(とくがわ) 5 代(だい)将軍(しょうぐん)綱吉(つなよし)の病(やまい)を治(なお)した功績(こうせき)で、本所(ほんじょ)一ツ目(ひとつめ)(東京都墨田区(とうきょうとすみだく))に邸宅(ていたく)を賜(たまわ)り、元禄(げんろく)5年(ねん)(1692)関東総検校(かんとうそうけんぎょう)となりました。江の島弁財天(えのしまべんざいてん)信仰(しんこう)が篤(あつ)く、下之宮社殿改修(しものみやしゃでんかいしゅう)、護摩堂(ごまどう)・三重塔(さんじゅうのとう)・江の島道弁財天道標(えのしまみちべんざいてんどうひょう)などを建立寄進(こんりゅうきしん)しています。私宅(したく)で没(ぼっ)し根岸弥勒寺(ねぎしみろくじ)(東京都墨田区(とうきょうとすみだく))に葬(ほうむ)られました。この墓碑(ぼひ)は翌年(よくねん)の命日(めいにち)に次(つぎ)の総検校(そうけんぎょう)三島世一(みしまよいち)が造立(ぞうりゅう)したものです。背後(はいご)に夫人(ふじん)の墓(はか)と思(おも)われる同型(どうけい)の墓碑(ぼひ)が建(た)てられています。所在(しょざい):江(え)の島(しま)・西浦霊園上(にしうられいえんじょう)
杉山和一(すぎやまわいち)の墓(はか)
昭和(しょうわ)40年(ねん)(1965)5月(がつ)31日(にち)指定(してい)/大橋重政(おおはししげまさ):元和(がんな)4-寛文(かんぶん)12年(ねん)(1618-72)。書家(しょか)。江戸幕府(えどばくふ)の祐筆(ゆうひつ)。江戸(えど)生(う)まれで、父(ちち)重保(しげやす)は2代将軍(だいしょうぐん)秀忠(ひでただ)の祐筆(ゆうひつ)。重政(しげまさ)も寛永(かんえい)8年(ねん)(1631)14歳(さい)で3代将軍(だいしょうぐん)家光(いえみつ)の祐筆(ゆうひつ)になり、祐筆吟味役(ゆうひつぎんみやく)・評定所出仕(ひょうていじょしゅし)を歴任(れきにん)、『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』仮名序(かかなじょ)のほか、幕府公用文(ばくふこうようぶん)や将軍(しょうぐん)の手本(てほん)を執筆(しっぴつ)しました。父(ちち)から受(う)け継(つ)いだ書法(しょほう)に独自(どくじ)の書法(しょほう)を加味(かみ)し、大橋流書法(おおはしりゅうしょほう)を普及(ふきゅう)させ、その開祖(かいそ)とされています。鵠沼(くげぬま)が所領(しょりょう)で、内(うち)9石(せき)を空乗寺(くうじょうじ)に寄進(きしん)しています。同寺(どうじ)に葬(ほうむ)られ、承応(じょうおう)2年(ねん)(1653)に没(ぼっ)した夫人(ふじん)とともに墓碑銘(ぼひめい)にその名(な)が刻(きざ)まれています。 所在(しょざい)・所管(しょかん):鵠沼(くげぬま)・空乗寺(くうじょうじ)
大橋(おおはし)重政(しげまさ)の墓(はか)
昭和(しょうわ)44年(ねん)(1969)2月8日(がつようか)指定(してい)/羽鳥小学校(はとりしょうがっこう)東側(ひがしがわ)に塾跡(じゅくあと)の石碑(せきひ)と新(あら)たに建(た)てられた門(もん)が建(た)っています。耕余塾(こうよじゅく)は、明治(めいじ)5年(ねん)(1872)羽鳥村名主(はとりむらなぬし)三觜八郎右衛門(みつはしはちろうえもん)が教育普及(きょういくふきゅう)のため、小笠原東陽(おがさわらとうよう)を招(まね)いて開(ひら)いた郷学校(ごうがっこう)の読書院(どくしょいん)にはじまります。学制布告(がくせいふこく)で翌年(よくねん)羽鳥小学校(はとりしょうがっこう)と改称(かいしょう)しましたが、東陽(とうよう)は小学校(しょうがっこう)と別(べつ)に読書院(どくしょいん)を残(のこ)し独自(どくじ)の教育(きょういく)を続(つづ)けました。入塾者(にゅうじゅくしゃ)が増(ふ)え、同(どう)11年(ねん)(1878)新塾舎(しんじゅくしゃ)完成(かんせい)と同時(どうじ)に耕余塾(こうよじゅく)と改称(かいしょう)、変則中学(へんそくちゅうがく)として再出発(さいしゅっぱつ)しました。当時(とうじ)の塾生(じゅくせい)は約(やく)90名(めい)で、北(きた)は奥羽(おうう)、西(にし)は静岡(しずおか)以西(いせい)に及(およ)び、多(おお)くが寄宿(きしゅく)していました。東陽(とうよう)は同(どう)20年(ねん)(1887)没(ぼっ)し、娘婿(むすめむこ)松岡利紀(まつおかとしのり)が塾長(じゅくちょう)を継(つ)ぎましたが、同(どう)30年(ねん)(1897)の暴風(ぼうふう)で塾舎(じゅくしゃ)が全壊(ぜんかい)、再建(さいけん)できず同(どう)33年(ねん)(1900)閉塾(へいじゅく)しました。後(のち)に政界(せいかい)・実業界(じつぎょうかい)で活躍(かつやく)した吉田茂(よしだしげる)、中島信行(かなじまのぶゆき)、山田嘉毅(やまだよしたか)などは卒業生(そつぎょうせい)です。所在(しょざい)・所管(しょかん):羽鳥(はとり)・藤沢市(ふじさわし)教育委員会(きょういくいいんかい)
耕余塾(こうよじゅく)の跡(あと)