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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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昭和(しょうわ)59年(ねん)(1984)3月(がつ)26日(にち)指定(してい)/各巻(かくかん)縦(たて)33.7㎝/江(え)の島(しま)の伝説(でんせつ)をまとめた紙本著色(しほんちゃくしょく)全(ぜん)5巻(かん)の絵巻物(えまきもの)です。詞書(ことばがき)は仮名交(かなま)じり文(ぶん)。絵(え)は伝統的(でんとうてき)なやまと絵(え)の画風(がふう)に水墨画(すいぼくが)の描法を採(と)り入(い)れて描(えが)かれています。作者(さくしゃ)は不明(ふめい)ですが、作風(さくふう)から室町後期(むろまちこうき)の作(さく)と推定(すいてい)されています。「江嶋縁起(えのしまえんぎ)」は、原本(げんぽん)は現存(げんそん)しませんが、数種類(すうしゅるい)の写本(しゃほん)が伝(つた)えられています。この縁起絵巻(えんぎえまき)は江戸時代(えどじだい)の江(え)の島(しま)総別当(そうべっとう)岩本院(いわもといん)の宝物(ほうもつ)として伝来(でんらい)しました。伝存縁起中最古(でんそんえんぎちゅうさいこ)の絵巻(えまき)として貴重(きちょう)です。現在(げんざい)、藤沢市文書館(ふじさわしもんじょかん)に寄託(きたく)されています。
江嶋(えのしま)縁起(えんぎ)
平成(へいせい)8年(ねん)(1996)3月1日(がつついたち)指定(してい)/縦(たて)90.0㎝、横(よこ)38.5㎝/一遍(いっぺん)の跡(あと)をうけ遊行(ゆぎょう)を続(つづ)けた時宗(じしゅう)二祖(にそ)・他阿真教(たあしんきょう)の肖像画(しょうぞうが)です。室町時代(むろまちじだい)の作(さく)と推定(すいてい)されています。素足(すあし)で上畳(あげだたみ)の上(うえ)に立(た)ち合掌(がっしょう)する姿(すがた)で、ねずみ色(いろ)の衾(ふすま)(防寒用具(ぼうかんようぐ))をはおっています。肉身(にくしん)は肉色(にくいろ)に塗(ぬ)り、極(きわ)めて細(ほそ)い墨線(すみせん)でくくり、口(くち)に淡(あわ)く朱(しゅ)をさし、衣紋線(えもんせん)も墨(すみ)の細線(さいせん)を使用(しよう)して、上畳(あげだたみ)は緑青(ろくしょう)、縁(えん)は白(しろ)に墨(すみ)の描(えが)き消(け)しで花文(かもん)を表(あらわ)しています。全国的(ぜんこくてき)には、類似(るいじ)の像容(ぞうよう)が何本(なんぼん)か存在(そんざい)しますが、面貌(めんぼう)にやや損傷(そんしょう)があるものの、一時代(いちじだい)の作風(さくふう)を伝(つた)える真教像(しんきょうぞう)の善本(ぜんぽん)といえます。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))
絹本(けんぽん)著(ちょく)色(しょく)二祖(にそ)他阿(たあ)真(しん)教(きょう)像(ぞう)
平成(へいせい)10年(ねん)(1998)2月(がつ)12日(にち)指定(してい)/縦(たて)76.0cm、横(よこ)32.5cm/遊行遊行(ゆぎょう)14代(だい)太空上人(たいくうしょうにん)を描(えが)いた肖像画(しょうぞうが)です。衾(ふすま)(防寒用具(ぼうかんようぐ))をはおり、数珠(じゅず)をもって合掌(がっしょう)する姿(すがた)で、一遍像(いっぺんぞう)や他阿真教像(たあしんきょうぞう)と同様(どうよう)に六字名号(ろくじみょうごう)を記(しる)しています。ただ、時宗(じしゅう)の高僧画像(こうそうがぞう)としては珍(めずら)しく、椅子(いす)に座(ざ)した頂相(ちんぞう)(禅僧(ぜんそう)の肖像画(しょうぞうが))の形式(けいしき)になっています。画絹(えぎぬ)の欠失(けっしつ)が目立(めだ)ちますが、幸(さいわ)い像容(ぞうよう)はよく残(のこ)っており、室町時代(むろまちじだい)の作(さく)と推定(すいてい)されています。太空(たいくう)は、上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱(らん)で落命(らくめい)した人畜(じんちく)を等(ひと)しく供養(くよう)した敵御方供養塔(てきみかたくようとう)(清浄光寺境内(しょうじょうこうじけいだい))を造立(ぞうりゅう)したことでも知(し)られています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))
絹本(けんぽん)著色(ちゃくしょく)太(たい)空(くう)上人(しょうにん)像(ぞう)
昭和(しょうわ)2年(ねん)(1927)4月(がつ)25日(にち)指定(してい)/像高(ぞうこう)90.5cm、檜材寄木造(ひのきざいよせぎづくり)、漆箔(しっぱく)、玉眼(ぎょくがん)/養命寺(ようめいじ)の本尊(ほんぞん)です。男性的(だんせいてき)な面貌(めんぼう)、堂々(どうどう)とした体躯(たいく)、切(き)れのよい衣文彫出(えもんほりだし)など、鎌倉初期(かまくらしょき)関東彫刻(かんとうちょうこく)に深(ふか)く根(ね)ざした運慶様(うんけいよう)を受容(じゅよう)したきわめて貴重(きちょう)な像(ぞう)です。玉眼(ぎょくがん)の使用(しよう)も東国(とうごく)では早期(そうき)の作例(さくれい)の一(ひと)つです。胎内(たいない)に建久(けんきゅう)8年(ねん)(1197)の墨書銘(ぼくしょめい)があり、造立(ぞうりゅう)ないし供養(くよう)の年(とし)と考(かんが)えられています。養命寺(ようめいじ)は16世紀(せいき)の創建(そうけん)と伝(つた)え、14世紀(せいき)の大庭(おおば)に薬師堂(やくしどう)のあったことが知(し)られているので、元(もと)はその本尊(ほんぞん)であった可能性(かのうせい)が高(たか)いものです。大正(たいしょう)の関東大地震(かんとうだいじしん)で罹災(りさい)し、昭和(しょうわ)3年(ねん)に修復(しゅうふく)され、また平成(へいせい)28年度(ねんど)に再度(さいど)修復(しゅうふく)が行(おこな)われました。※12年(ねん)に一度(いちど)、寅年(とらどし)の開帳(かいちょう)。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):養命寺(ようめいじ)(現在(げんざい)は鎌倉国宝館(かまくらこくほうかん)に寄託中(きたくちゅう))
木造(もくぞう)薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)
2019年(ねん)指定(してい)/像高(ぞうこう)58.5㎝、寄木造(よせぎづくり)、玉眼(ぎょくがん)/八臂(はっぴ)・8本腕(ぽんうで))の弁才天坐像(べんざいてんざぞう)です。面相(めんそう)や衣文(えもん)の特色(とくしょく)などから鎌倉時代(かまくらじだい)の作(さく)と考(かんが)えられています。頭上(ずじょう)に蛇身(じゃしん)の宇賀神(うがじん)をいただき、まなじりの切(き)れ上(あ)がった両目(りょうめ)が強(つよ)い表情(ひょうじょう)をつくっています。8本(ぽん)の手(て)には弓(ゆみ)・矢(や)・剣(けん)・宝珠(ほうじゅ)・輪宝(りんぽう)・戟(げき)・宝棒(ほうぼう)・鉤(かぎ)を持(も)っています。首内部(くびないぶ)の墨書銘(ぼくしょめい)から永正(えいしょう)10年(ねん)(1513)に彩色修理(さいしきしゅうり)されたことがわかります。かつて下之宮(しものみや)(辺津宮(へつみや)〉本殿(ほんでん)に奉(たてまつ)られていました。弁才天(べんざいてん)は、元来(がんらい)インドの河(かわ)の神(かみ)で、水神(すいじん)として尊崇(そんすう)されました。祠堂(しどう)が池(いけ)や河(かわ)のほとりに多(おお)く見(み)られるのはそのためです。やがて言語(げんご)(弁才(べんさい))の神(かみ)、さらに財宝(ざいほう)をもたらす幸福(こうふく)の神(かみ)とされ、七福神(しちふくじん)の一人(ひとり)とされました。 所有管理者(しょゆうかんりしゃ):江島神社(えのしまじんじゃ)
木造(もくぞう)彩色(さいしき)弁才天(べんざいてん)坐像(ざぞう)
昭和(しょうわ)41年(ねん)(1966)1月(がつ)17日(にち)指定(してい)/像高(ぞうこう)24cm、安山岩(あんざんがん)一石彫刻(いっせきちょうこく)/小像(しょうぞう)ながら、ていねいでよくまとまっていて、力強(ちからづよ)さと大(おお)きさを感(かん)じさせます。この像(ぞう)の隣(となり)に本尊(ほんぞん)の木造閻魔大王像(もくぞうえんまだいおうぞう)があり、その体内像(たいないぞう)で、江戸期(えどき)の作(さく)と考(かんが)えられています。この石造像(せきぞうぞう)は、以前(いぜん)は村内(そんない)の閻魔堂(えんまどう)(今(いま)はない)に本尊(ほんぞん)の“前立(まえだ)ち”として安置(あんち)されていたようで、同堂(どうどう)が退転(たいてん)する時(とき)に、本尊(ほんぞん)とともに近(ちか)くの花應院(かおういん)に移(うつ)されたと伝(つた)えられています。なお、本尊(ほんぞん)の木造像rp>(もくぞうぞう)は、『新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)』によると「小野篁(おののたかむら)彫刻(ちょうこく)せしと伝(つた)う」と記(しる)されています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):花應院(かおういん)
石造(せきぞう)閻魔大王(えんまだいおう)像(ぞう)
平成元年(へいせいがんねん)(1989)12月(がつ)25日(にち)指定(してい)/像高(ぞうこう)178.5㎝、檜材寄木造(ひのきざいよせぎづくり)、玉眼(ぎょくがん)/慈眼寺(じがんじ)の本尊(ほんぞん)です。水晶(すいしょう)の玉眼(ぎょくがん)をはめこみ、頭体(あたまからだ)とも四材矧(しざいは)ぎを基本(きほん)につくられています。頭上中央(ずじょうちゅうおう)の仏頂面(ぶっちょうづら)と十面(じゅうめん)の化仏(けぶつ)を頂(いただ)き、左手(ひだりて)に蓮華(れんげ)をもつ通常(つうじょう)の尊容(そんよう)です。量感(りょうかん)豊(ゆた)かな尊体(そんたい)、顔立(かおだ)ちはゆったりとした反面(はんめん)、知的(ちてき)に引(ひ)き締(し)まり、着衣(ちゃくい)の表現(ひょうげん)も巧緻(こうち)です。慶派系(けいはけい)の作風(さくふう)を窺(うかが)わせる本格的(ほんかくてき)な良作(りょうさく)で、鎌倉後期(かまくらこうき)の作(さく)と考(かんが)えられています。解体修理(かいたいしゅうり)で往古(おうこ)の優(すぐ)れた尊容(そんよう)に復(ふく)された折(おり)、胎内文書(たいないもんじょ)が発見(はっけん)され、天正(てんしょう)11年(ねん)(1583)に鎌倉仏師(かまくらぶっし)快円(かいえん)が修理(しゅうり)を加(くわ)えたことなど、貴重(きちょう)な事実(じじつ)が新(あら)たに確認(かくにん)されました。秘仏(ひぶつ)ですので通常(つうじょう)の拝観(はいかん)はできません。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):慈眼寺(じがんじ)
木造(もくぞう)十(じゅう)一(いち)面(めん)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)立像(りゅうぞう)
平成(へいせい)8年(ねん)(1996)3月1日(がつついたち)指定(してい)/像高(ぞうこう)52.5cm、臂張(ひじばり):30.7cm、膝奥(ひざおく)28.3cm、頭長(とうちょう)18.8cm、膝張(ひざばり)40.0cm、腹厚(はらあつ)16.3cm、檜材寄木造(ひのきざいよせぎづくり)、彫眼(ちょうがん)/長生院(ちょうしょういん)の本尊(ほんぞん)です。螺髪(らほつ)は彫出(ほりだし)、木寄(きよ)せは、頭(あたま)と躰(からだ)を共木(ともぎ)で造(つく)り、首(くび)で割(わ)り矧(は)ぎ、更(さら)に前後(ぜんご)に割(わ)り矧(は)いでいます。頭部(とうぶ)や面部(めんぶ)は丸(まる)みを帯(お)び、面相(めんそう)は穏(おだ)やか、体部(たいぶ)はゆったりとしていますが胸(むね)は薄(うす)く、衣文(えもん)の彫(ほ)りは浅(あさ)く整(ととの)えられています、定朝様(じょうちょうよう)の作風(さくふう)が窺(うかが)われ、平安後期(へいあんこうき)、12世紀(せいき)の作(さく)と推定(すいてい)される市内屈指(しないくっし)の古仏(こぶつ)です。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):長生院(ちょうしょういん)
木造(もくぞう)阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像(ざぞう)