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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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昭和(しょうわ)41年(ねん)(1966)1月(がつ)17日(にち)指定(してい)/総高(そうだか)101.5㎝、口径(こうけい)66.5㎝/銘文(めいぶん)によると、この鐘(かね)は、至徳(しとく)3年(ねん)(1386)に鋳造(ちゅうぞう)された千葉県香取市(ちばけんかとりし)の香取神宮寺(かとりじんぐうじ)の梵鐘(ぼんしょう)でしたが、明治維新(めいじいしん)の神仏分離(しんぶつぶんり)の際(さい)に流出(りゅうしゅつ)したものとわかります。明治(めいじ)5年(ねん)(1872)羽鳥村(はとりむら)78人(にん)が22円(えん)1分(ぷん)を献金(けんきん)したことが銘文(めいぶん)に追刻(ついこく)されており、村民(そんみん)が仏具商(ぶつぐしょう)から買(か)い入(い)れ、非常警報用(ひじょうけいほうよう)の鐘(かね)にしたと伝(つた)えられています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):御霊神社(ごりょうじんじゃ)
羽鳥(はとり)御霊神社(ごりょうじんじゃ)の梵鐘(ぼんしょう)
昭和(しょうわ)53年(ねん)(1978)12月(がつ)15日(にち)指定(してい)/縦(たて)61.9㎝、横(よこ)54.0㎝、鋳銅製(ちゅうどうせい)、両面式(りょうめんしき)/銘文(めいぶん)から、寛永(かんえい)3年(ねん)(1626)荻野郷(おぎのごう)(厚木市(あつぎし))の鋳物師(いものし)木村長拾郎吉次の作(さく)とわかります。市内最古(しないさいこ)の雲版(うんぱん)です。雲版(うんぱん)とは、もとは中国(ちゅうごく)の楽器(がっき)でしたが、わが国(くに)へは鎌倉時代(かまくらじだい)に入(はい)り、寺(てら)の庫裡(くり)などに掲(かか)げて起床(きしょう)、食事(しょくじ)、坐禅(ざぜん)などの時刻(じこく)を知(し)らせるために打(う)ちたたく法具(ほうぐ)として使用(しよう)されました。銅(どう)または鉄製(てつせい)で、形状(けいじょう)が板状(いたじょう)の雲形(くもがた)であることから、その名(な)を得(え)ています。これを打(う)ち鳴(な)らして衆僧(しゅうそう)を集合(しゅうごう)させた、往時(おうじ)の宝泉寺(ほうせんじ)の隆盛(りゅうせい)ぶりをしのぶことができます。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):宝泉寺(ほうせんじ)
遠藤(えんどう)宝泉寺(ほうせんじ)雲(うん)版(ばん)
平成(へいせい)10年(ねん)(1998)2月(がつ)12日(にち)指定(してい)/総高(そうだか)100.5㎝、口径(こうけい)54.0㎝/銘文(めいぶん)によると、元々(もともと)この梵鐘(ぼんしょう)は江(え)の島(しま)に所在(しょざい)した金亀山江島寺(きんきざんえじまでら)の鐘(かね)として寛永(かんえい)6年(ねん)(1629)に鋳造(ちゅうぞう)されました。追銘(ついめい)から、明和(めいわ)8年(ねん)(1771)に江島寺(えしまでら)の鐘(かね)が再鋳(さいちゅう)された際(さい)、この寛永(かんえい)の鐘(かね)を石井平七(いしいへいしち)が買(か)い取(と)り、慈眼寺(じがんじ)に施入(せにゅう)したことがわかります。作者(さくしゃ)の酒巻庄五郎定勝は相模国外(さがみのくにがい)の鋳物師(いもじ)と思(おも)われます。元和(がんな)(1615)以降(いこう)に鋳造(ちゅうぞう)された梵鐘(ぼんしょう)は、ほとんどが太平洋戦争中(たいへいようせんそうちゅう)に軍事目的(ぐんじもくてき)から金属資源(きんぞくしげん)として回収(かいしゅう)されたため、現存(げんそん)するものが少(すく)なく、中世(ちゅうせい)の作例(さくれい)に劣(おと)らず貴重(きちょう)なものです。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):慈眼寺(じがんじ)
旧(きゅう)江島(えじま)寺(でら)梵鐘(ぼんしょう)
昭和(しょうわ)29年(ねん)(1954)3月20日(がつはつか)指定(してい)/折本(おりほん)、縦(たて)23.4㎝、横(よこ)8.4㎝、僧衆(そうしゅ)144折(おり)、尼衆(じしゅう)84折(おり)/遊行上人(ゆぎょうしょうにん)所持(しょじ)の過去帳(かこちょう)で「僧衆(そうしゅ)」「尼衆(じしゅう)」の2帖(じょう)があります。代々(だいだい)の上人(しょうにん)が諸国遊行(しょこくゆぎょう)に携行(けいこう)し、死亡(しぼう)した僧尼(そうに)の法名(ほうみょう)を真筆(しんぴつ)で書(か)き継(つ)いだもので、『往古過去帳(おうごのかこちよう)』とも呼(よ)ばれています。一遍在世中(いっぺんざいせいちゅう)の弘安2年(こうあんにねん)(1279)6月(ろくがつ)二祖(にそ)真教(しんきょう)の筆(ふで)で始(はじ)まり、30代有三(だいゆうぞう)が遊行(ゆぎょう)を相続(そうぞく)した永禄(えいろく)6年(ねん)(1563)まで、285年(ねん)で12000近(ちか)くの霊数(れいすう)が記(しる)されています。後代(こうだい)には信者(しんじゃ)の法名(ほうみょう)も記入(きにゅう)され、これを「お過去帳入(かこちょうい)り」と称(しょう)して、浄土往生(じょうどおうじょう)の証(あかし)と考(かんが)えられるようになりました。かつては巻子(かんす)でしたが、現在(げんざい)は折本(おりほん)のかたちになっています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))
時(じ)衆(しゅう)過去帳(かこちょう) 2帖(じょう)
昭和(しょうわ)29年(ねん)(1954)3月20日(がつはつか)指定(してい)/枡型綴葉装(ますがたてっちょうそう)、縦(たて)16.3㎝、横(よこ)16.6㎝、(表紙(ひょうし))紺紙金泥蓮花文(こんしこんでいれんげもん)、(見返(みかえし))金箔(きんぱく)/日本語(にほんご)で仏(ほとけ)を礼拝讃嘆(れいはいさんだん)する歌(うた)(和讃(わさん))が記(しる)されています。時宗(じしゅう)では、一昼夜(いっちゅうや)を6つに分(わ)けた、晨朝(じんじょう)・日中(にっちゅう)・日没(にちぼつ)・初夜(しょや)・中夜(ちゅうや)・後夜(ごや)の六時(ろくじ)に、この和讃(わさん)を唱(とな)えました。内容(ないよう)は恵心僧都(えしんそうず)(源信(げんしん))撰(せん)と伝(つた)える六時居讃(ろくじいさん)の写本(しゃほん)です。鎌倉期(かまくらき)の二祖(にそ)真教筆(しんきょうひつ)と伝(つた)えられていますが、書風(しょふう)から南北朝期(なんぼくちょうき)の写本(しゃほん)と推定(すいてい)されています。末紙(すえがみ)に「カミ数(すう)44まい」とありますが、現在(げんざい)本紙(ほんし)は51枚(まい)あります。「安食問答(あじきもんどう)」と合(あ)わせて1件(けん)として、重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定(してい)されています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))
六時(ろじ)居(い)讃(さん) 1帖(じょう)
昭和(しょうわ)29年(ねん)(1954)3月20日(がつはつか)指定(してい)/枡型綴葉装(ますがたてっちょうそう)、縦(たて)16.3㎝、横(よこ)15.3㎝、紙数(しすう)94枚(きゅうじゅうよんまい)、(表紙(ひょうし))茶地菊花文金襴(ちゃじきくかもんきんらん)、(見返(みかえし))金箔(きんぱく)/二祖(にそ)真教(しんきょう)が、近江国安食(おうみのくにあじき)(滋賀県豊郷町(しがけんとよさとちょう)あたり)の九郎左衛門入道実阿弥陀仏(くろうさえもんにゅうどうじつあみだぶつ)からの質問(しつもん)に答(こた)えた返事(へんじ)です。四十八ヵ条(よんじゅうはちかじょう)からなり、一条(いちじょう)ごとに順(じゅん)を追(お)って答(こた)える形式(けいしき)で書(か)かれています。末尾(まつび)に正和(しょうわ)3年(ねん)(1314)9月9日(がつここのか)の日付(ひづけ)と「他阿弥陀佛(たあみだぶつ)」(遊行上人(ゆぎょうしょうにん)の称号(しょうごう))の署名(しょめい)があり、真教(しんきょう)の自筆(じひつ)と考(かんが)えられています。真教(しんきょう)の考(かんが)えを知(し)る上(うえ)で貴重(きちょう)な宝典(ほうてん)です。「六時居讃(ろくじいざん)」と合(あ)わせて1件(けん)として、国(くに)の重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定(してい)されています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))
安食(あじき)問答(もんどう) 1帖(じょう)
昭和(しょうわ)50年(ねん)(1975)2月7日(がつなのか)指定(してい)/江(え)の島(しま)岩本院(いわもといん)に伝来(でんらい)した約(やく)400点(てん)の古文書(こもんじょ)です。縦(たて)51.2㎝・横(よこ)69.5㎝の折本(おりほん)と通称(つうしょう)される1帖(じょう)と、巻子(かんす)50巻(かん)に整理(せいり)されています。江戸時代(えどじだい)の江(え)の島(しま)弁天社(べんてんしゃ)は本宮岩屋(ほんぐういわや)・上之宮(うえのみや)・下之宮(しものみや)の三社(さんしゃ)があり、江嶋寺(えのしまでら)と総称(そうしょう)される三坊(さんぼう)が三社(さんしゃ)を管理(かんり)していました。三坊(さんぼう)とも明治元年(めいじがんねん)(1868)に廃寺(はいじ)となりましたが、その内(うち)、本宮(ほんぐう)を預(あず)かっていたのが岩本院(いわもといん)で、全体(ぜんたい)の総別当(そうべっとう)でもありました。岩本院文書(いわもといんぶんしょ)は、享徳(きょうとく)4年(ねん)(1455)の足利成氏(あしかがしげうじ)感状(かんじょう)(戦功(せんこう)をたたえる文書(ぶんしょ))以下(いか)、古河公方(こがくぼう)足利氏(あしかがし)・小田原(おだわら)北条氏(ほうじょうし)・徳川将軍家(とくがわしょうぐんけ)・本山(ほんざん)だった京都(きょうと)仁和寺(にんなじ)との関(かか)わり、島内(とうない)のできごと、弁財天信仰(べざいてんしんこう)など、中世(ちゅうせい)から近世(きんせい)に至(いた)る江(え)の島(しま)の様子(ようす)を知(し)らせてくれます。現在(げんざい)、文書館(もんじょかん)に寄託(きたく)されています。
岩本院(いわもといん)文書(もんじょ)
昭和(しょうわ)59年(ねん)(1984)3月(がつ)26日(にち)指定(してい)/縦(たて)33.0㎝/江島神社(えのしまじんじゃ)の「江嶋縁起(えのしまえんぎ)」です。「江嶋縁起(えのしまえんぎ)」は、漢字(かんじ)(真名(まな))書(しょ)で絵(え)のない真名本(まなぼん)と、仮名(かな)交(ま)じり書(しょ)で絵巻(えまき)の仮名本(かなぼん)とに大別(たいべつ)されますが、これは縁起(えんぎ)の当初(とうしょ)の面影(おもかげ)を伝(つた)えるとされる真名本(まなぼん)です。料紙(りょうし)を24枚(まい)継(つ)ぎ、毎行(まいぎょう)14~16字詰(じづ)めが最(もっと)も多(おお)く、江(え)の島(しま)の出現(しゅつげん)、弁財天(べざいてん)・五頭龍(ごずりゅう)の物語(ものがたり)から始(はじ)まる縁起(えんぎ)が漢文体(かんぶんたい)で書(か)かれています。巻末(かんまつ)に享禄(きょうろく)4年(ねん)(1531)書写(しょしゃ)の奥書(おくがき)があり、永承(えいしょう)2年(ねん)(1047)に比叡山(ひえいざん)の皇慶(こうけい)という僧(そう)が撰述(せんじゅつ)した縁起(えんぎ)を写(うつ)し継(つ)いだとも記(しる)されています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):江島神社(えのしまじんじゃ)
真名(まな)本(ぼん) 江嶋(えのしま)縁起(えんぎ)